[p327]
        第三編    風景と心意生活




    [
    本書上、「感覚」という場合、一つは、物理・科学的な直接的刺激による感覚、つまり、印象や観念とは別の、感覚器官そのものの感じ方と、もう一つ、この感覚器官の現実の刺激とは別の、それから生み出され、それから複合的・重層的集積されて来た、現実はとは別の独立した観念と印象の世界をも指している。そしてまたもう一つ、感覚器官による直接の刺激は、さらに二つに区分される。きわめて分かりやすい個々の器官の個別的・直接的な刺激に対する感覚、物理的・化学的感覚と、それを自身の身体内部で無意識の内に感じ取っている、いわゆる「触動的」感覚、言い換えると生理的感覚である。
以上、身体の外に対する、現実的・直接的・物理的感覚と、自己の身体内部に対する感覚=無意識の触動的・生理的感覚と、そうしたことの歴史的結果としての観念的・印象的感覚に区分される。
    ]




    風景とは、土地の表面の一部と、これに相応する天蓋の一部とが、人間の心にわき起こす全感覚的印象をいう。人類の感覚器官の中で眼はその第一の地位にあって、一切の事情の中で、目に見える風景こそが人間のその風景の中核を形成している。しかし、このような事情があっても、人間は必ずしも、ある美的発展にすなおに従いつつ、風景全体をその目に見える方面だけで、全く尽くされたと考える者ではない。このことは、「風景」という自然な概念とは別に、絵画的概念でもって風景を見ている者である。

    風景が人間の心理に及ぼす影響、あるいは風景が美術家的もしくは全く美学的に限定された風景鑑賞としてではなく、暮らしの中の自然な条件や背景としての風景がひき起こす影響を研究する上では、風景が持つ非視覚的性質は、もっとも重要な意味を持つ。音や、響きや、香りや、ニオイや、あるいは触れる肌の感触や、温度の感受性、あるいは痛みの感覚などが及ぼす効果のきわめて錯雑紛糾した総和や、それら全体が重なり集まって、そして初めてこれらの色や形と相伴って、人間が一定の心霊的作用において、   [p328]   風景として経験する自然全体の観念的世界を形成する。

    ここから次のようなことが生み出される。一方には風景が持つ複雑多様な印象、他方には天候と気候とが持つ複雑多様な現象が、現実の日常の観察を覆い尽くそうとするに至る。こうして、「もの憂き天候」あるいは「嬉しき天候」などという判断は、少なくとも風景評価の一片を含むものとなる。

    こうした[風景評価の]範囲は、人が天候と気候の知識を、おおまかに見る、聞く、触れるといった日常現象から求めるに従ってますます拡大する。

また、気圧、空気中の帯電性、空気の湿気、ないし空気の密度という感覚的には知覚し得ない、あるいは感覚的に知覚し得ても、極めて粗大な諸要因が、この天候と気候の性質の形成に作用するところがが大きいほど、[風景評価の範囲が]ますます縮小して行く。しかし、これらの諸要因が感覚的に感じられるのは、きわめて隠微であるために、風景の構成上まったく与える所がなく、たとえ与えたとしてもわずかに微かな痕跡を認めるに過ぎない程度のものである。

    こうした風景という概念の重要なところを、眼に見えるものの中にあると考えれば、温度という要因もまた風景構成上、一層偶発的な意味を持つに過ぎないことになる。   [p329]   なお、稲光がする状態、明らかな湿気の下降は、天候と気候そして風景という概念が、しばしば相互いに錯綜する基底としての、範囲の限界を示している。そしてこの種の混合錯綜もまた、きわめて変化が不定である。

    われわれの言語の使い方は、ある瞬間には全く錯雑としていても、次の瞬間には再び本能的に引き離すことがある。例えば、天候とか気候いう言語よりも、むしろ客観的気象学的事実が考えられ、また、風景という言語よりも、むしろその事実の主観的反省、すなわちそれが我々に及ぼす印象が考えられる、といった風にである。

    科学の任務は、常に連続的に流動する万有の変転過程の場所に、境界を分かつことにある。従って科学は正に実際の生活と反するに至る。そしてこれは、この場合[風景]においても、またそうである。このような自然環境の現象に対する心理[情緒]的反動の認識にとって、天候、気候、および風景という概念の区別がいかに重要であるかは、すでにしばしば繰り返してきた諸々の例証が、これを明白に示している以上、ここではただ詳細綿密な論理的根拠を確かめ定める必要があるだけである。

    研究が、このような概念を区別するのに周密になるに従って、かの様々な諸概念によって覆われている事象間の諸関係について、ますます価値多き識見が開かれるに至る。すなわち、天候と気候は人間の風景にとって、   [p330]   重要な副因である。そしてこの場合、天候という具象的な刹那的現象に相応するのは、具象的な刹那的風景影像であって、気候という抽象的な永続的現象に相応するのは、定まることのない諸影像から超越した確固不動の抽象的風景性質である。

    この風景影像とその性質という両語は、いずれも我々に極めておびただしい様々な経験を想い起こさせる。このような心理的影響を論ずる限りにおいて、これらの言葉の背後に含まれているものが、これに因果的に参与する気象学的および気候的事変といかに著しく相異し得るか、また風景的影像は、それと同時に生起する天候といかに相違するか、また風景性質は、それを形成する気候といかに相違するかということが、思い起こされる。

[これは外的感覚と内的感覚の違いであって、またそこから生み出された情緒や思考との違い、さらにそれらの間で行き交う感覚の切り替え(変換)を言っている。すべてが同じところから来ているのであるが、それぞれが、それぞれにとって感じ方が違うのである。そして、このそれぞれ自体がまた、すべて同じ自分自身から来ているのである。
これは同じ出来事を、同じ本人が、本人自身の中で異なる次元から見ている。外的感覚と内的感覚、さらに観念、あるいは思考といったものが、それぞれ異なる次元の異なる世界から、そとの世界を見ているのである。すべてそうしたことが、自分の中でそれぞれが分裂していて、そして統合されているのである。
だからまた、本文中にあるように、言葉が「切り離される」といったことがおこるのである。]

    この攻究は、これを一々釈明することによって、攻究の様々な場所に横たわる諸困難を回避してはならない。その他、天候や気候の場合とは反対に、この研究は諸々の原因からして複雑な形態の経路をたどるために、次の条理が、この研究そのものから明らかになる。

    すなわち、その心理的作用上、比較的熟知されたものから出発して、比較的困難なものに登り行くという原理を採用すること、   [p331]   また我々をして、特に美学的な風景作用――その分析をここですることが出来ない――に陥らせてはならない、ということである。

    



   [p332]   

        第1章   風景の諸要素


    いかなる構成部分が「要素[不可欠の条件]」として妥当であるかは、実際、総体的な事柄である。あらゆる科学の部門は、その実用上の要求に従ってこれを決定する。等しく風景の問題に関係する地質学は、最近のある定義に従えば、この同じ風景の中に我々とは全く異なる構成部分をもって「要素的」としている。

    しかし我々にとっては、この同じ風景が、心理学的見地をもってその基準とならざるを得ない。こうして我々の定義は、人間に対する風景の本質的なものとして、感覚的印象全体を指すものであって、ここでは諸要素という概念を、威勢い感覚心理学の習慣に従って選択せざるを得ない。こうして我々にとって風景の諸要素とは、風景という全体的印象を心理的に構成する感覚器官の知覚を指すことになる。[そしてまたここから生理や情緒・感情といったものが生み出され、さらに印象や象徴、そしてそれらが思考としてさ迷い、一人歩きを始める]

    これらの諸知覚は、ただ一つの例外を除けば、すべて感覚器官から始まるものであるが、ただ一つ、味覚だけは風景の影響を構成する上で何ら参与するところがない。[これは誤りで、味覚もイメージを連想するし、それへと誘い導くカタチなき「象徴」ともなっている]   [p333]




      第一節  風景の色


    あらゆる感覚の印象は、心理の中で二重の影響を及ぼす。一つは身体的な感覚で、他の一つは観念的な感覚である。そのうち、観念的感覚は、感覚作用の特殊要素を超越するので、ここでは説明しない。しかしながら、身体的感覚というのは、感覚器官を通して特殊な感情状態が生み出されるということであって、こうしてここに、いわゆる「感覚の知覚」とは、個々人にとっての経験といったものが、目の前に再現される限りにおいて、「感覚知覚の情調」とでもいうべきものである。

    もしもこの、感覚知覚の客観的性質を求めようとするならば、先に、観察される限りのすべての個人は、外的刺激が等しい場合には、相等しい感覚器官の知覚、すなわち「等しい感覚」を持つと仮定しなければならない。しかしながら、こうした仮定が、一般にも、また特に色の場合に特に不確実であるというのは、人の良く知るところである。

    例えば、同じ赤色の刺激が、緑、灰、白、あるいは褐[かつ:濃い紺色]として見える色盲者がいるだけでなく、赤色として見ている人々の中でも、その色沢(色つや=色の卓越性)の種類と強度、   [p334]   そして これと似た類似色の赤色から区別する精度が大きく異なる。

    一方に多数の人々があらゆる灰ないし白に対して、直にある色を見ることがあるにも関わらず、他方においては、はなはだしく努力しても容易にこれを区別できない人が多いのは、だれもよくが知るところである。もとより、それとこれとでは、その結果としての感情の影響において様々に相異なるものである。こうしたことは後で、非常に重大な困難として必ず一度はこの研究を妨害することになる。しかし今の時点では、われわれは、なお未だこのような見解を持ち始めたというのに過ぎず、我々はさしあたり、感覚的に知覚される物の相近づき行く同一性において、きわめておおまかな実際的了解を示すことと、組をなして分かれているその相違点を、分別することで満足してよいのである。

    また、。色の刺激を客観的に比較することが極めて制限されていることから、別の不具合にも遭遇する。およそ色は、色彩的に輝きつつある光源の放射によるか、あるいは、実際もっともよくある事なのだが、白い光の分裂によるかの、いずれかによって起こるものである。しかしながら、いずれの方面においても我々が「純粋」な色を得るには、   [p335]   自然な状態ではきわめて限られた場合だけに限られるということである。分光器により、あるいは格子によって生じたスペクトルが、この「純粋色」を示すのであるが、ただ、一定の配置、または屈折、もしくは湾曲によってのみ、それが示されるのである。

    色の多くは混合したものであって、特に「絵具」の色は、白い光の中からある色を吸収して、残りの他の色だけを透過、または反射したものであって、その色は分光器によって人為的・実験的に作りだした「純粋の色」ではないのであって、「絵具の色」や、自然に見られる色というのは、主色の外に様々な他の諸色の痕跡を含んでいる。太陽光の下での世界は、分光器的純粋色は極めて限られた条件下だけに見ることが出来る。それでも、透過した光にあっては、このことはもう少し容易に見られる。

    自然な天然の色は分光器によって得られた純粋な色[色相]とは、著しく隔絶している。それは、単純な色の場合でもまたそうである。もしも人が、分光器から映し出される色によって、なにかしらの感情効果というのを確かめようとするときは、我々はこれを、少し間隔をおいて後に、実際の不純粋な天然の色の下で見直す必要がある。イヤ、むしろ人がその感情効果を知ろうと欲するなら、まずこれを自然な天然色において研究し、こうして得られた結果をもって、分光器によって得られた結果と比較しなければならない。   [p336]   そして研究が進むに従いその隔絶はより大きくなる。しかし、単なるおおまかなあらすじに過ぎない考えだけを扱う場合には、そうした隔絶による差異はほとんど見られない。

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    色の刺激による影響の中に連想的でないもの、すなわち、身体的な直接の感覚器官に属する現象の一つに、色の知覚によって惹き起こされる他の感覚器官の興奮がある。例えば、ある色を見ると、それと同時に何かそこにはないはずの、他のニオイ(嗅覚)を感じるといったことがあるし、[無意識の世界で失われた何らかの記憶のカケラが閃いている] また、もっとも多いのは音の感覚、すなわち音が聞こえる「色聴」がそうである。しかしながら、これらの諸現象は、はなはだ稀な現象であって、また全く非常規であって、色彩効果の合理性という研究からは、ただちに除去されるべきものである。
    絵画においてよく行われている、諸々の色を「暖かい」または「冷たい」色として特徴づけるのは、色の刺激によって温度の感覚が同時に惹き起こされるということを意味しているのではない。ただ内面の感情状態というのを視覚的なイメージとして表現しているのである。
[これは慣れがもたらした観念的な連想によって、内的な感覚といったものが復元されているのである。従って、人間は自分でも気づくことがないまま、確かに反射的に「温感」というのを感じている]
色がもたらす、こうした感情状態の特殊な性質は、ここの色彩効果の研究によって直ちに知ることが出来る。
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      1  赤と黄    赤は、紅から黄の境目に及ぶまで、あらゆる色合いを通して一つの例外もなくみな、興奮させる作用がある。私はこのような感情論もしくは、「興奮」という感情をいかなる地位に置くか、というようなことを説明しようとするのではない。興奮がどのようなものであるかは、すでによく知られている事だからである。   [p337]

    赤が惹き起こす興奮は快にも不快にもなり得るものである。これは、色の性質に基づくというよりも、むしろ、影響効果の強度と期間、そしてその対比関係とその連合事情に基づくものである。多くの動物、特に彼らがすでに一種の興奮状態にある場合は、赤を示されることによって著しく「刺激」されることは、遍く人々の知るところである。他方において赤は、肉欲を興奮させるものとして等しく大きな作用を及ぼす。それは小児、野獣など一般に「自然」な、すなわち美的に影響を及ぼすことがない人類の態度によって認められる。

    最も強い興奮は、赤の範囲内では猩紅[ショウコウ、黒みを帯びた鮮やかな紅色]である。分光器[プリズム]上で最も黄に近い色合いである。[文字通りに解釈すると、オレンジか暗い赤茶色になる] 赤の飽和とその明るさから来る最大の感情効果は、やがてこれら両性質[彩度と明度]が持つ分光器上の度合いとを相伴う。飽和[彩度]が減少し、赤を薄くして淡紅にしても、興奮作用はなお存するけれども、その作用は穏和となる。

    人間は、感覚を単に、間接の連合[連想・連携・錯覚・偶然]的方法で感じるだけでなく、きわめて要素的感覚としての淡紅を「さわやかな」色として感じる。もしも赤を曇らせると、興奮は赤を「薄く」する場合よりも速やかに減退するけれども、これと同時にきわめて注目すべき変化を惹き起こす。   [p338]   すなわち、興奮せしむる至高力は分光器的に言えば左に傾く[黄?]。猩紅の暗い色調、すなわち褐赤[かっせき]が比較的目につかなくなって、淡い紅の暗い色調、すなわち真の暗い紅は、さらに永く興奮作用を継続する。この場合、我々は、暗い赤色の「気味悪さ」が不可欠の根本的な条件と作用しているのか、あるいは連合的な「血の色」、あるいは「暗澹たる」赤さといった作用に基づくものなのかは、問われない。

    [
・光は、波長が長いほど媒体の影響が少なく、透過し、回り込む。これが赤色である。また波長が短いほど媒体の直接の影響を受ける。この影響の度合いに従って、左から順に青・緑・黄・赤に表示される。これは地表に届くまでの波長の長さを基準にしている。青から順次カットされていって、最後は赤色だけになる。
・褐: かつ:赤みがかった茶色。または薄く黒の混じった紺色
・猩紅: しょうこう。薄く黒みを帯びた鮮やかな紅色
・要素: 物事を成り立たせるもと。必要で不可欠な条件。それ以上は簡単なものに分析できないもの。エレメント。
・橙黄色: とうこうしょく、赤みがかった黄色、オレンジ色

・色の飽和: 色の階調がなかったり、細部が潰れていること。色が飽和している状態のこと。
色の3属性の1つで,「彩度」とも呼ばれる。同じ色相の色でも,無色に近いものから色調の鮮かなものまで,さまざまな変化をもつが,この変化の度合いを飽和度という。無彩色軸から離れるに従って飽和度が高くなるが,その最大値は色調,明度により異なる。
・色調: 色彩の濃淡強弱の調子。色あい、色相。
・褐色(かっしょく): 栗の実のような色。オレンジ色と黒の中間色である。
    ]
    

    黄色は、赤色のような興奮作用は著しく衰えるけれども、なお存在することは明らかである。ただし、淡い紅色にあったような強度が、弱くなったものに過ぎない。黄色の興奮させる作用は、橙黄――この色はもとより自然には何ら独自の色値を表示しない。ただ学問上の均整を考慮する必要から強いて固有の色とされたのに過ぎない――から降って次第に緑の色域に至る。黄色の興奮作用もまた、色が薄くなるときわめて急激に減退する。すなわち、飽和[彩度?]されていない黄色はもっぱら白色のように作用する。

    そしてこれが一層著しく曇った、本来の褐は、[かちいろ、濃い紺色。栗色の褐色=茶色とは別の色]  感情に対する作用が最も少ない色の一つである。これに反して、黄が少し曇れば淡い褐となり、暗い黄色になれば興奮が上昇するように思われるために、最も強い興奮力は、黄においては分光器で得られる明瞭性とは一致せず、それよりはるかに暗い方向にある。   [p339]   上述の比較的に暗い赤と黄における感情影響の、かの二つの「転移」から容易に理解できることは、色の感情曲線というのが、はなはだ錯雑紛糾していて、心理学教科書で見られるものより、確かに一層錯雑紛糾しているということである。

    風景においては、赤と黄は極めて限られた影響があるだけである。この二色は共に、きわめて広範な表面を現すというのは稀である。その大多数は、人為的に作り出された風景である。耕作や園芸の所産としての菜種[なたね]畑や花園などの風景がそうである。秋の風景は、概して赤と黄からなる。しかし通じて言えば、赤褐や、淡褐や、暗褐のような曇った色調のものが、比較的純粋な色の中に混っている。

    その中でも最も際立っているのは、北アメリカの秋と、インドの夏において見られる。この場合、すでに耕された田野と同じく、赤と黄の集塊が興奮させる、「活気づける」効力は紛れのないものである。こうした効力は、自然が赤と黄とをプリズム的純粋性においてもたらす時刻、すなわち黄昏、夕焼けと朝焼けの場合にその頂点に達する。

    もちろん火事の際にも赤く彩られた、または赤黄の天空のながめが、これを眺める人々をしてすべて著しく興奮させる理由は、単に不幸や危険、ないし宇宙元素の狂暴などというような   [p340]   連想だけに基づくものではなくて、この場合、表面に現れて実際力強い作用を行使しているのは、何かしら一つの感覚の要素がそうさせているのである。感覚の中でその素になっている不可欠の条件、要素といったものが、感覚をしてこのような力強い作用を促しているのである。

    1883年のクラカトゥア大黄昏が及ぼした興奮的効果もまた、一部分は異常にして「気味が悪い」という事がその原因をなしているが、この「異常な」ということ自体が、もしもそれが赤や黄を呈さずして緑を呈していたとすれば、恐らくこうまでも興奮することはなかったと思える。一度でも色美しき黄昏を観察した人は、緑あるいはリラ色の色調が生じ来れば、興奮が明瞭に減退し [減退しない、オーロラを見よ]、 赤および黄が現れることによって、興奮はその頂点に達することをか慣らず経験するであろう。

    その他の場合において、我々は両色の集まりのむしろ散布するのを見る。野原に咲く赤と黄の花がこれである。この場合、人を興奮させる作用は、おおむね著しく不明瞭であるが、それでもなお、きらびやかに人を興奮させる性質を持つ。すなわち赤いケシの花は、この種の最も良い例である。

    ぬまえんこう草やタンポポに至っては少し劣る。これについては前に述べた所をすこぶる興味のある方法で研究することが出来る。例えば、ぬまえんこう草の草原は、さくら草の牧場よりも確かに興奮させる作用が強い。   [p341]   少し暗い黄はプリズム[分光器]の黄よりも興奮的である。このプリズムの光について言うと、えんこう草の黄は、さくら草よりも多少赤に近よっている。

    もとより広く一面に淡い黄色の、例えば菜種のような花の隙間のない表面は、また、かの散布する「ぬまえんこう草」の黄よりも多く興奮的に作用する。ここにおいてわれわれは、もはや形態の作用に触れているが、それはまた別に説明する。このような研究において最大の困難は、連想からくる副効果と、本来美学的な評価とから離脱するということである。しかしこの両者は、一般にある程度以上は離脱し得ないものである。そういう訳で実は、原始人、すなわち健康な小児のような、未だ教化の影響のない者に及ぼす効果と比較しつつ導きだすという事がますます重要になる。

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    心理が非日常的な場合にあっては、我々は色の感情効果がしばしば表面上、非常に変化しているのを発見する。しかしながら、これをさらに詳しく分析すると、原則が見えてくる。例えば赤と黄、特に赤は、やわらげられた色調においてもまた、不愉快な影響を及ぼすことがある。なぜなら、それはあまりにも強烈に興奮させるものとして感じられるだけでなく、頭痛、またはこれに似た身体的徴候をもたらすからである。
    反対に、異常者の多数の人々は、燃えるような赤に対して病的に高揚した親和性を示し、   [p342]   特にヒステリー性の者、癲癇性の者、および多くの結核病者がそうである。骨と関節の結核病によって不具となったも者が、それによって一層不具になることが明らかであるにも拘わらず、強いて真紅の衣を着ようと求めるのは、人の良く知るところである。ただ遺憾なのは、このような肉体に病める者の心理的特性が、未だかの色彩に関する「趣味の迷誤」の説明を許容するほどには、よく研究されていないということである。
    ヒステリー性の者および癲癇性の者が、赤色に対して親和性を持つのは否定できない。「燃えるような赤」または「焼けるような赤き」などは、実にこうした異常者の夢や、幻想や、詩的な構想などにしばしば現れて来ていて、きわめて愉快な酒色の耽溺にも比べられる感情的色彩を惹きおこしている。このような、「色」に対して感情が興奮する性質は、特殊な色に対する無条件的な感じ方と直接関連する。
    例えば「赤」色盲は、彼らが赤の代わりに知覚する緑、灰、灰褐などによって、興奮を惹起することは決してない。論理的には興奮すると考えられても、やはり興奮することはない。しかしそうは言っても、それが直に赤によって興奮される性質と、赤そのものの色の差異を感覚し得る性質とは、全く比例するとは言えないのである。
    赤の個々の色合いを区別する能力は、極めて精緻なものであって、赤を見ることによって起こされる感情の興奮性は比較的わずかである、といった事もまたあるのである。これと同じく、良い聴覚が、ただちに音楽的興奮性と一致する、とは言えないのである。ある程度までは、もちろん、感覚的識別の精妙性と、それが感情に与える相応性は相一致する。しかし、それが示す限界点は、個人的に大きな違いがあるのである。   [p343]



     2  緑、青、菫[青紫]、紫[赤紫]    スペクトル上の中間諸色は、すべて赤と黄ほどには不可欠で条件的、要素的なものではない。これに反して、これらの色がわれわれの目に映る時間が長ければ長いほど、より美的な色となる。これら諸色がもたらす穏やかな作用は、例えば、青色についてしばしば言われるような、「心穏やにする」ものかどうかは疑問である。

    これらの色のいずれにおいても、それぞれが孤立して現れる場合には、、それは疑いもなく快感を覚醒するものであって、一見、ただちにその快感によって興奮するように見える。けれども色彩ある表面が大きく、またその色彩が現れる期間が長いほど、ますます心を平穏にする性質を得てくる。緑においては、快楽と安静とは相伴って持続する。そしてこれらの諸色の継続的影響の全体を、「嬉しい安らい」とでも言おうか。

    青においては快の高揚は、比較的急速に消失する。たとえこの高揚は、個人によって相違するかも知れないが、最初、緑の場合よりも一層強烈であって、すべての感覚を一種の無関心的な安静にさせるけれども、これらのことは、一切が色の飽和と鮮明の度合いとに従って変化する。

    スミレ色の効果、及びスペクトルでは見られない人為的に作り出された、スミレと赤の中間の色、すなわち[赤]紫の効果は、   [p344]   きわめて不確実である。ここでは快感がさらに一層強まり、また永続的になるようである。そして心を鎮静する作用はなお存在する。深い紅に至って始めて明瞭に興奮させる赤の作用が現れる。

    これらの様々な色によって惹き起こされる不可欠の根源的で条件的な作用は、これを著しいものとしないのは、その主張において正しく慎重な態度と言わなければならない。例えば、ブントがこれについて設ける所の多くは、疑いもなく連合的 [観念間の類似・接近・因果、錯覚と偶然] 効果である。この効果は要素的、つまり不可欠な条件としての原因といったものが、多くの人々にとって際立って目立たないものであるというだけに、こうした場合にますます強く現れ出ることになる。また心を安静にする自己観察も、これを興奮させる印象の観察に比べると、さらに困難かつ不確実である。こうして快感によって興奮させられた情緒のほとんどが、そのまま無意識の内に持続し続けることになる。



    風景においては、スミレと紫の作用は極めて少ない。ただ広大な平面において、例えば黄昏の天空において青紫の色彩として広がるだけである。そうして緑と青はますます勢力を得て、実に絶対的な風景色の感がするのである。すなわち植物に覆われた地面の色、雲なき空の色、または広がる静かな水面の色などがそうである。これらの色から生み出されるのは、純粋な快感である事は疑うことが出来ない。   [p345]

    [
    ここでいう「連合」とは、様々な原因や条件、要素といったものが、複雑に絡み合い、錯綜し、入り乱れ、混じり合いながら、本来関係のないものまでが、重畳的(ちょう じょうてき)・複合的に、直接・間接にからみ合ってくる。そして結果的に連動・連携しているのであって、要するにひとこで言って、偶然と錯覚が支配する世界である。これは、そうした意味では、客観的なのであって、人間の主観や意図といったものが入り込む余地のない世界である。無意識で、生理的・情緒的な世界である。人間の精神といったものが、知らず気づかないまま、肉体だけがそれを知っていて、そしてこの肉体によって人間の精神が支配されている、そうした世界である。
    ]

「心の平安」は、しばしば諸要素の連合から生じてくる。たとえば、「静かな水」、「静かな天候」というのは、空気の動きがないということであって、またこの空気の動きから生み出される、「心理的興奮」がないということである。人が、興奮と動揺をもたらす原因から逃れようとする部屋の中では、例えば病室の中では、これら青・緑・紫を本能的に選択する[普通ベージュを選択している]のは、その心を安静にする効果を持つということを示している。

    メガネ、ランプなどの眼病処方にこれを応用するのは、これに反して、ただちに心理に及ぼす効果のために用いられたものではない。この応用は、単に緑と青が生理的に赤や黄のように、感覚器官を強烈に刺激して緊張させることがない経験を示している。そしてこのことは、心理的影響、特に興奮と鎮静という情緒の動き、そうした心理の対比現象から見ても多少照応しているかも知れない。しかしこれについては、我々は確実な材料を持っていない。

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    青を現わす言葉は、ほとんどあらゆる言語において、きわめて遅くに定められたという言語学上の断定は、青が見えなかったという事を示すのではない。多くの人々が、原始人は青色盲であって、青と緑、黒、灰を区別できなかったと推論しようと願うが、これは間違いである。むしろ、こうした感動するというような印象そのものが、素朴な人類にとっては、特に気になるとか重要な事にはならなかったという事を証明しているのに過ぎないのである。
スミレ、特に薄められたスミレは、ムラサキシドイやニワトコの赤のように、   [p346]   しばしば異常な人の愛好する色である。それが享楽において彼らは沈湎[ちんめん、沈み溺れる]する。しかしながら、この場合に作用するのは、むしろ美的感性である。この実に明淡なスミレ色は、極めて美的な、著しく顕わな色合いなのである。このような人が色を表現するときの特質は、これに相応する色の要素的効果がもたらしたものであると結論するのは誤りである。
青色の印象がもたらす心を落ち着かせる効果が、仮にこの印象が確実に行われるものとして、単に、上に述べた身体の表面全体に及ぼす青の光が惹き起こす[?]、心を安静にさせる影響の一つの事例に過ぎないのかどうかという疑問は、われわれが今日持っている知識では答えることが出来ない。
青い光は皮膚全体の神経末梢から生じるように[?]、同じく、網膜の神経末梢からもまた、中枢の安静を生じるという推論[?]は、極めて最もらしく思われるけれども、しかしわれわれは決して、生物の世界においては、もっとも簡単で最も真らしい結論が、その実、往々にして妥当でないことが多いのを忘れてはならない。そしてこの事実は、こうしたところに理論的に結びつくことがある。このような二つの事実[思い込みと理論]が不確実なことを、全く無視しても、このことは、やはり忘れてはならない点である。
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      3 黒・灰・白    無色[白色?]の光の印象の数々が心理上に及ぼす影響は、それが大なる場合は心を麻痺させ、小なる場合は作用はなく心を安静にさせ、やや大名るときは、心を強圧し沈鬱にさせる。きわめて純粋な白が、すなわち「光のように白い」色がこの除外例を為すかどうかは確かではない。   [p347]   但しこのような白には、少なくともそれを初めて見る最初の瞬間には、容易に興奮させる効果があるのは、いかなる場合にも必ず可能である。

    もちろんこのような効果は、その白をある一定の目的に応用することによって、ただちにこれを推断する必要はない。恐らく心理に及ぼす白の効果は、他の色の効果よりも一層多く、他の諸々の連合関係に依存している。こうして我々は、われわれが常々「親しき」と言い表す白の効果を、要素的なもの[不可欠な条件]として、つまり、美学的でないものとして見ることが出来る。しかしこの場合、実に紛糾する。この「親しい」という印象には、他の経験が対立する。こうしてきわめて白い光源は、これを黄色の光源[暖色系?]と比較すると多少「親しからざる」点を有し、黄色[暖色]の光源の方が一層「温かく」、一層「心地よく」作用するからである。

    純粋に白という概念は概ね一つの仮想物である。いかなる白も我々に対しては、必ず他の色と相混じって現れる。白色のこうした性質は、それが環境の色沢によって帰納的に規定されるということである。さらにまた、白の効果の中には、「光を強める効果」が特別強烈に作用する。すなわち、極めて強い白は「まぶしい」。   [p348]   それは、心理上に及ぼす色の効果が全く起こらない場合に、なおかつ、「たえられない」状態が感覚器官から起こり来るという事を意味している。ある種の程よき「光輝」は、われわれを興奮させて愉快にさせる。しかしそれが暗くなればなるほど、いよいよ圧迫の感じを生み出す。すなわち、乏しい微かな光は、人をして陰鬱に陥れる。

    白、灰および黒は、風景においてきわめて大きな影響を及ぼす。人は風景のイメージを構成する景観を、無雑純白にして示す一つの風景形態を知る。雪の降る風景「冬景色」がそうである。またこれと並んで氷山の風景がある。これもまた純粋な白のきわめて広大な表面を表現する。次に、晴れ輝く晴天の白雲が思い浮かぶ。個々に散在するものには、水泡あるいは花の白さよりもむしろ、石灰および白亜の鉱石中に存在する白がある。霧の海も往々にしてきわめて純粋な白として現れる。また、人がその中に立つ場合の霧も、これを透かして太陽が輝き入る際には、ほとんど白と紛うばかりの光沢ある灰色を呈する。

    その他、雲と霧、ことに同じような雲の層は、灰色のあらゆる段階を示す。また水面もしばしばこのように作用する。盤石性の、太古岩などの数多くの岩石構成はまた、灰色に見える。概して灰褐[薄く青が混じったネズミ色]に見える地面は、特に砂面として、   [349]   まれに灰色を呈する。

    風景の中に見る深い陰影、多くの岩石、および純然たる闇の印象は黒である。これが心理上に及ぼす影響の、非常に錯雑としていることは、これらすべての諸例においてよく思い起こされるところである。こうして心に作用しないもの、および圧迫するものが、ことに勢力を持つという事は、ほとんど疑う余地がない。


      4  風景色の対比と吸引    共在[空間]的、および継起[時間]に様々な色は、対比によって相合に影響し合う。言い換えると、種々な色合いは出来る限り相合の間で大きな対比を作り出そうとする。補色、すなわち相合して白を成す各々の色は、同時に相対比する。これらの色は、人間の感覚にとって互いに対抗するものとして見える。それぞれが互いに相手に対して自らを際立って見せる。あるいは人間の感覚はそのように見せている。またはそのように見える。

   この場合、それぞれの色が互いに引き立つというは、他の場合よりも一層光輝き、一層極限にまで満たされ、そして一層印象深く際立つということである。これによって人々に対して愉快な興奮を惹き起こす。そうした条件と要因を感覚の中に作り出す。こうした状態は、あらゆる色の中で最も興奮し、そして最も愉快なものが互いに比べられる場合、すなわち赤と緑とが相対比する場合に、もっとも強烈になる。   [p350]   (民謡にも「緑[赤?]と緑が照り映える」という)。

    非補色は互いに吸引[反発]し合う。このような色の各々の色は、互いに相手の色から反対のスペクトル方向へ押しやられる。例えば、青と緑を並べた際には、青は紫に、緑は黄の方に近よって見える。ただし、これらの色がその飽和の程度[彩度]において著しく異なるときのみは、この限りでない。
[飽和:明清色でも暗清色でもなく、ストロング・ビビット]
    
    このような場合には、「軽い」色が、飽和した色の方へ浸り行くように見える。例えば深い緑に水色を加えれば、青緑を帯びてくるのがそうである。このような吸引は、白において、特に灰色において特に著しい。白も灰も、共に他の色と並べると、対比色が微かに色づいて見える。赤と並ぶと白も灰もそれぞれ緑を帯びて見える。青と並んでは黄を帯び、黄と並んでは青を帯びて見える。

    黒と白は、相対比する。こうしてそれらと作用する灰色は反発する。灰色は白と並ぶと濃い灰に、黒と並ぶと薄い灰色に見える。

    吸引がひき起こす心情的作用は、対比がひき起こす心情効果のような明確に主張し得るものではない。個の効果は人によって相違し、また美学的素質および修練にも関係する。   [p351]   吸引[反発]の要素的効果は、親近な品質を持つ、きわめて清純な、飽和した、そして明るい色、例えば赤と黄、黄と緑、緑と青、青と紫、紫と赤が互いに「反発」する限りにおいて、言い換えれば、それらが激しい不愉快の感じを見る者に惹き起こす限りにおいて、その効果が最も速やかに作用するのは、実に「消極的」方面においてである。

    このような不愉快な作用は、分光器の右半分よりも、むしろ左の半分の方が一層強く感じられる。すなわち黄と並ぶ赤は、緑と並ぶ青よりも一層耐え難く感じられる。近接した様々な色を利用して、そうして快感をもたらす、いわゆる「色味」は、こうした事情から主に分光器の右側の並びに見られ、またこの中でも特に飽和することが少ない、比較的暗い方の範囲に多く見られる。

    様々な色の[時間的]継起が及ぼす不可欠の条件的[要素的]作用は、心理に対して徹頭徹尾時間的距離に比例し、これらの[空間的]並在が及ぼす要素的心理的作用よりも極めて弱い。

    ダイヤモンドや万華鏡の中のように、数多くの色が並びあって、あるいははなはだ急激に継起して、それらが互いに共同で作用するときは繚乱という印象がひき起こされる。この現象は、最初はなはだ愉快に興奮させるものであるが、   [p352]   しばらくして、おそらく感覚器官の生理上の疲労によるのか、前と同じ激しい不愉快の反動に陥る。しかしこの場合、美的感受性が大いに作用することがある。しかしまた、単純な人々は、この諸色雑然たる繚乱をはなはだ長く耐えることが出来ない。

     このような訳で、諸色の共同作用には、次のような様々な感情の反動が生じてくる。すなわち、互いに反発する諸色がひき起こす、愉快な繚乱の作用、愉快な感じを惹き起こす対比の効果、あるいは不愉快をひき起こす効果などが生じてくる。このようにして、愉快をひき起こす――その一部分は恐らく心を鎮静化する――吸引作用、およびあまりに長く継続する諸色の繚乱がひき起こす不愉快な作用は、全くほとんど要素的なものにならない。[対比・繚乱というのが、快・不快に対して、不可欠の根本的な条件にならない。]

    風景の中で作用する諸関係についても、これと似た基準がある。風景の中の、諸色の雑然とした繚乱は、最もおびただしく、最も強烈な効果を生み出す。例えば、花咲く野原、華麗な夏日の洛陽のように。

    感覚のかなり鋭敏な心情の持ち主に対しても、風景色はそれぞれが相反発し合う事が極めて稀であるというのは、著しい事実である。例えば、[極限にまで満たされ広がった]飽和した野の緑の上に、飽和した黄色の花があること、緑の若々しい草野の真ん中に菜種の畑があること、天空の青と草野の緑の相対することなどがそうである。それらはいずれも、あたかも人が芸術的に諸色を用いたかのようである。   [p353]   我々は、こうした自分自身の感じ方といったものに、何らの説明を見出すことが出来ない。しかしなお、こうした事実は、実に興味深く、また確かなことなのである。

様々な色の広がりとその分布と並んで、これに優らずとしても、少なくともこれに匹敵する程度に、不可欠の条件的作用を及ぼす要素に、光の強度の分布がある。明と暗の対比は、これが圧迫的な暗だけが支配する場合に比べれば、きわめて愉快な興奮を惹き起こすように作用する。また、これが明だけが支配する場合の興奮作用に比べれば、明暗の対比といったものは、はるかにこれを越える。

    ただ「暗」だけが支配するとき、これをそれ以前の、「明」だけが支配する場合に比べると、心を愉快にし鎮静させる作用は、わずかに一時存在するに過ぎない。「明と暗の対照」がもたらす効果の頂点は、明が量的に暗よりも、多少大きな面積を占める場合がそうである。こうして、もしも人間にとって日輝く天候が、日妨げられる天候よりもはるかに愉快な作用を及ぼす風景イメージを生み出し、そしてまた、この日輝く天候においても、朝と夕方が、至高の快楽を生み出す風景なのであるが、これは色の飽和、あまねく無限に広がる純粋な色の世界、特に明暗の対比の複雑多様なことが、この愉快な感じの原因になっている。   [p354]
しかしながら、このような日、特にこのような時は、まさに、一様にあまねく光り輝く「明るさ」のたもとに、多種多様に広がり満つる陰影によって、このような作用を生み出すのに適しているからである。

    この場合、心理的に除かれている黒の効果は、もっとも軽快なカタチで、心を鎮静化させるものとして作用しているのは明らかである。このような明暗錯綜する風景といったものが、人間の心中に生み出す愉快な興奮と鎮静とが上下に行き交う状態が、全体としての風景からもたらされる愉快な刺激を構成しているのである。

    ここからまた次のことが考えられる。丘陵の起伏が連続する――しかし、アルプスのような山岳ではない――風景がひき起こす「爽快な気分」は、明暗の対比の形式による以外に、いや、さらに、それよりも遥かにおびただしい、明暗対比の多様性によるものであると。しかし、このような多様性といったものは、平原風景が近づくに従い、単なる公園の風景、すなわち、個々孤立する木々と木々の集群とが散在する、一様に緑の草原において、しかも均等な割合で存在する風景の背景にあっては、普通にはないことである。

    明暗の対比は、それが光輝の現象においてその頂点に達する。感覚の生理学がこれを諸形式とその運動とがひき起こす生理の作用として説明しても、それでも、この光輝の作用は、われわれ人間にとってみれば、   [p355]   常に必ず純粋な光の現象として出現する。それは、燃えるような赤と諸色雑然とした繚乱として、素朴な人心に対して最も不可効的に作用する光現象として現れる。

    すなわち、子供や原始民族のような無教育者は、赤いもの、繚乱たるもの、また光輝あるものに対して、興奮し歓呼狂喜する。このような場合に我々が、ギラギラするもの、あるいはピカピカするものという極めて不安定な光輝は、その興奮力において雑色の繚乱とおよそ同じ効力がある。

    風景においても、素朴な人類に及ぼす影響の中で、光輝の現象が最も効果が大きい。日ピカピカと輝く水面を見れば、あまり感覚が鋭敏でない子供でも、興奮して拍手する。大人でも、きわめて原始的な心理の体験能力持つだけの者は、明白に快楽反射に陥る。風景のたもとにあって、水から発する、強く不可抗的な心理作用の、すべての種類が、水面の光輝能力に基づくものであるという事は、けだし、思い当たることが多い。

    水は実に、一切のものに優って、輝き得る風景の構成部分である。それが固まったカタチでもまた、氷として華麗な光輝作用を呈示する。光輝の特殊な種類、ギラギラすること、ピカピカすることは、それぞれが離れ離れに出現する場合いがあるけれども、   [P356]   また、暗い背景の中で対比されることによって、最も大きな効果を収めることもある。

すなわち、星宿輝く天空におけるような、あるいは最も大規模なのは、厳しい霜が覆う冬景色がそうである。そこでは単に雪に覆われた地面だけでなく、空気さえも「ダイヤモンドの粉末に満たされた」ようになって現れることがある。冬の霜が降りる現象もまた、必ずそうだとは言えないけれども、それでもなお驚異すべき光輝の現象を呈することがある。固形物にあっては、おおむね、光輝は比較的に稀である。それでも、穀類および雑草が揺れ動く際には、大なる葉の表面(蕪菁畑:かぶらはたけ)に常にその光輝が現れてくる。しかしまた、素よりその作用の要素性という点から比較すると、水の輝き、あるいは霜のキラメキに比較し得るものではない。

    光輝(グランツ)の最も穏やか性質のものを微光(シンメル)とする。微光では色が重きをなす。それなのに、本来の光輝において輝く箇所は、特に明暗の発現として、そのものの周りの部分色から分離する。人々は、青き水面上で幾千の橙光によって輝くといい、また、雪においては、ダイヤモンドをまき散らしたようだという。それは、われわれが光輝く物を、色あるものから切り離している。そうして一方では、我々は赤い微光、   [p357]   あるいは青い微光などというものを感じ取る。

    ここにおいて微光は、自ら現れずして、そのところの色にある特殊な美しさを帯びさせている。微光は、それがいかなる類たるを問わず、必ず愉快を惹き起こすように作用する。そしてその作用が、長く持続することがある。そして極めて激しい光輝は目をくらます。そうして少し穏やかなものにあっても、長く持続すると著しく疲労させる。

微光は、極めておびただしく、きわめて微小な陰影、影像などが、光に応じて反射される周りとの対比によって、いたるところで見い出される。例えば、斜陽が照らす凹凸多い表面などがそうである。そういうワケで、岸壁、樹幹のような垂直の風景形象は、太陽が中天に来るときにしばしば微光として現れる。それと同時に、草原の表面のような平面的な風景形象は、主に太陽が低いときにしばしば微光が生じる。

    愉快な微光の作用は、素朴な人々の心をも、これを感じさせる。しかもその感じというのが、微光ある色というのが彼らにとって特別に心地良いのである。一様に短く刈り去られた芝生の緑を、毎日午後の日光が照らし出す――単に技術上の手入れがそうするだけでなく、自然ももまたしばしばそうするのであるが――こうした緑は、他の微光せざる表面が持つ、すべてが質的に等しい緑がひき起こす好適の作用よりも、はるかに優れている。   [p358]   「芝生の絨毯」という比喩のコトバが、気づかず知らぬ間にこうした微光の特性を示唆している。



      第2節   風景の諸形態


「カタチ」とは、もっとも広い意味では、人間の感覚的印象の空間的秩序、すなわち白黒の世界ないしその知覚をいう。このカタチというのは、色よりも少し抽象的なものである。その影響は、たとえ無意識にはいかに有力なものであっても、あまり意識されていないものである。人間は、このような感覚印象が人に作用する理由を知らない場合があるけれども、それはたいていその形態関係に主な理由がある。

    およそ言えることは、カタチが心情に及ぼす効力は、色が心情に及ぼす影響よりも遥かに劣っている。「形態感受性」は、美的事象の中に存することがはるかに多くして、色感受性よりもはるかに劣っている。これに反して形態[カタチ]そのものは、知性中において大いに役割を果たす。すなわち、最も素朴な人でも、その注意、記憶し、再認し、比較し、類似の発見をするにあたって、主にその対象のカタチに基づいて、これをする。

    俗語の自然命名は、これに対するはなはだ興味ある例証を示している。すなわち、我々はいたるところ、空想の極みに達する数多くの形態標徴[カタチの印し]に遭遇する。にもかかわらず、色はこれについて何らかかわる所がない。   [p359]   たまにかかわる場合でも、「白い流れ」とか「黒い流れ」といった、きわめて平凡な語像に見られるに過ぎない。

    こうして光明と暗黒との対比は、ここでもまた強い印象として厳存し、感情んい相応するカタチの影響は、しばしば色影響の中にも共在する。例えば同じ「緑色」と言っても、それがあるいは平らな平面として、あるいは突兀とした隆起として、あるいは錯綜紛乱する混淆[こんこう]、叢原(そうげん)として、はたまたこれに類する数多くのものとして現れるにつれて、随所にその影響を異にする。

    素朴な精神がカタチを感じるというのは、ただカタチというのが、すでにカタチを成した色として、彼の感情の中で作用しているというのは正しくない。こうして色とは関係なく、単にカタチとして感情に順応して経験され、しかも一切の美的趣味がこれに伴わないカタチの関係がある。これは、いわゆる「特徴的」なカタチ、最も単純渾一にして、しかも最も複雑多趣なものである。

    しかしまた「カタチ」は、それが動くことによって独自の感情的作用を獲得する。すなわち、風景の移動がもたらす心情的作用は、静止したカタチがもたらすそれよりも、はるかに要素[規定された条件]的なものである。なぜなら、静止したカタチが心情を左右するのは、それが人間の姿態特有性[?]とよく似ていると見る、知的な迂路によって始めてこれを良くするからである。

[人間は、自分の姿カタチでもって外の世界を類推・抽象・暗示される、という事なのか? もちろん人間は、自分のカラダを通してしか外の世界を知り得ない。それを知るというのは、自分のカラダの中の動きや仕組み、その作用の仕方でもって、外の世界を対象化し推測しているのである。]   [p360]

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    風景の中でのカタチの作用は、ラッツェルの人文地理、生物地理、および政治地理の主要部分を形成する(但し、その大部分が類推的術語で充満しているとしても)。これをさらに詳しく観察すると、この場合、地面形成の実際的鑑識、あるいはもっと適切に言うと、地面形成の実際的・本能的着目、すなわち植民権能、耕作能力、侵略に対する防衛などが全く決定的なものなのであって、その地方の形態世界に対する満足あるいは不満足などといったものが、決定的なものにならないというのは当然である。
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      1  最も単純なカタチ    特に単純なカタチとして風景が示すのは、直線、規則的波状線、平面がこれである。とくに線形状は、自然なカタチとして最も多く水面に存在する。水流は、人類がこれに手を加えなくても紐のように、まっすぐに、あるいはきわめて規則的に配置される。

    あるいは、硬い地面においては、単純な線形状は概ね開拓の賜物である。山背は特に遠くから眺めると、往々天空に対してまさしく長い直線を形成する。雲の形もまたまっすぐになることがある。黄昏の空に、層雲のカタチをした長い紐のようなまっすぐに延びる雲の線がしばしばみられる。このような線形状は風景の中で、全く要素的な、不可欠の条件として規制される心理作用をもたらすけれども、この種の影響を記述することは決して容易ではない。この作用は単純な満足や快楽に近いものである。   [p361]   特に波状線の場合がそうである。

    湾曲した線の作用は、まっすぐな線よりも概して要素[条件]的である。直線で構成されるカタチにあっては、その心理的作用は半ば知的である。この種の作用は一部、驚愕に属する。いや、一部というよりは恐らくその大部分、いや、その最大部分がそうだというべきである[←同じことを言っている]。また、この過程をあまり論理的に考えてはならない。例えば、私たち人類が定規あるいは測量縄をもってしてわずかに描き得るものを、自然は余技としてこれを為す、これは実に驚くべきことではないか、と言うようにである。

    しかし、驚愕の過程は決してこのようなものではない。驚愕はただ全要素[条件]的なものである。それは、異常なものに対する心情的反動なのである。しかしながら、風景を構成する様々な線は、普通極めて雑多に湾曲し、揺らぎ思いのままにさ迷い、広範な範囲にわたるものは必ずしもまっすぐではないのである。もっとも単純な風景のカタチ、すなわち平原は、このようにして単純に、平坦でないものに対する対比としての意味があるだけである。こうして平坦でない風景が存在しないところでは、平坦であるという表面上のカタチは、何の意味もないことが明らかである。

    しかしながら、このような対比がある場合、言い換えると、荒漠たる平原を前面に控えた山地の一端に歩き始める場合には、その影響は常に鎮静的であると同時に、またこれが為に容易に変じて愉快なものとなる、   [p362]   弛緩の感情に属するようになるのは少しも疑いがない。同じようなことは、堅い平原、あるいは何ら落ち着きのない広い水面においても、そのまま言えることである。

(シュワルトウァルトからライン平原を、ハルトから北ドイツ平原を眺める場合がそうである。リューゲンのケーニッヒシュトゥールから静かな日の東海を眺める場合もまたそうである。こうした場合に見えるものは、物の表面が実に純粋な、潜在的で隠れたままだった何かしらの要素が、限られた条件の中でカタチとなって限りなく広がり延びて行くという、気づかず知らず意識もしようがない無意識の印象が、われわれ人間にとって作用する最も力強い衝撃の一つとなっている。何かしらの得体の知れない正体不明の失われた記憶の痕跡として残り続けているのである。)

    こうした作用は、はなはだ条件的[要素的]であって、しかしまた、その継続の長短は千差万別である。緊張と弛緩とのきわめて急速な交錯に慣れた山間の住民は、その初めは愉快に心を落ち着かせる弛緩は、平原を見るに及んで急速に変化し、一層高度な、もはや愉快にならない弛緩の程度に瓦解する。平原は、単にこれを瞥見するだけですでに興味索然[空虚・バラバラ・解体]たらしめる作用を起こし、倦怠を催させる。

    平原の弛緩的印象を最も強く感じる者は、平常これに慣れた人が、しばらくこの地を去り、丘陵連なり起伏する土地に赴き、時を経てようやく当所に帰って来た人である。この場合、連山重畳し複雑紛叫する風景形態から生ずる興奮的、圧迫的なすべての作用を身に蒙った後、平原が半ばそのカタチによって、半ばその慣れによって、深い鎮静的印象として作用する。

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こうした作用を正当に知ろうとするなら、一般に疲労の感じという「弛緩」は全く主観的状態であって、こうした状態の成立には、必ずしも客観的な身体上および精神上の疲労、すなわち活動能力の衰退を含むものではない点に注意しなければならない。疲労という感じは、客観的な疲労の徴候である。しかし両者[弛緩と疲労]は必ずしも相俟って初めて起こるものではない。実験的観察はこの事を証明している。
    実際、我々はこれを経験から知る。主観的疲労、特に弛緩は往々断固とした活動によって、にわかにこれを一掃することがある。また、人は強力な事実上の疲労に襲われる場合に、主観的な蠢惑的な「活気」を喜ぶことがある。同じ距離の散歩は、平原と山地では、平原の方が疲労が少ない。しかしまた人間は、山地における比較的長距離の散歩の後には、むしろ活気付き、これが平原の場合には、むしろ弛緩するというのが常である、というモッソーの発見は、まさに上述[疲労と蠢惑的活気] の出来事と一致する。
    こうした効果の客観的側面は、概して筋肉作用の差異に基づく。もしも、高度に随応した気候がこれと協働したならば、低地の行進は、高原における高進よりも疲労が少ないはずである。しかしながら、その主観的側面は、明らかに風景的要素に基づく。山地における印象、形状などの移り変わり、交替[こうたい]と、平地における単調性などがそうである。素より風景が持つその主観的影響といったものが、風景そのものの客観性を少しも変えることがない。
    われわれ人類の態度、話し、行動などは、少なくとも客観的要因によって規定されるというのと同じく、強く主観的要因によっても規定されている。   [p364]   例えば場合によっては、「弛緩」が客観的活可能性よりも一層強く人間に作用することがあるし、また、こうした客観的活動可能性は主観的弛緩においても存在するのである。
    湾曲した表面形状の中でも単純なもの、例えば上部が球状の堤頂のようなものは、要素的[素質がもたらす条件的]効果およびこれに応じる線形状を欠いている。このような表面を特質とする「穏やかな」風景は、これは全く美的に評価しようとする感覚の所産であることは明らかである。低地から来た者がこの種の山岳形状においてしばしば注目するのは、線と面の形状の柔らかさではなくて、元の平原の単調さに比較しての、山地の形状が極めて愉快に対比する、緊張的、興奮的多様性、錯綜性なのである。
    このような性質は、真に山脈が多いアルプス的な形状がもたらす、平地人を威圧するかのような形状の多きさから来るものなのである。山地と平地(原野、水面)とのこのような対比は、きわめて要素的な、根源的な素質に適うような風景の心理的効果として、また最古の美的風景の一つともなっている。海に臨む
丘の上に建てられた古代ローマの夏季別荘は、古代の画家の風景構成を成している。
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      2  最も複雑な形態。    「諸要素」の中で最も複雑なものを取り扱うというのは、恐らく人をして奇異の感じを抱かせる。しかしながら我々が用いる要素という概念は「比較的」という意味のものである。すなわち風景は、この比較という諸属性を通して感じられてくる。このようにして諸属性といったものが、たとえいかに錯綜したものであっても、色や音や、その他の諸因子、   [p365]   並びに連合的諸構成部分の共同作用によって始めて、人間にとっての風景といったものが構成されるのである。従って風景上の複合性は、形態上の単一性と同じく、風景の構成部分であって、それを制約し規制する条件としての「要素」を成している。こうしたことは、色の場合に雑色の繚乱が、一色だけで表され、そこから様々にカタチ作られた形態のように感じられ、とらえられるのと同じである。

    [ 連合ー1
本書でいうところの「連合」の意味は、一般的な用語とは非常に異なっている。「連合」とは、ある現象が現れたところの、その条件や原因、背景といったものを、条件付け規制し方向づけた、そうした組み合わせ、関係のことを言っている。人間がそれを、たとえ無意識であるとしても、自分の観念の世界で整理し順序付け、秩序づけることによって自分にとって理解できるものにするということである。
     自分の中にある何らかの経験ないし慣れに基づいて、そこから復元し再現して行くということである。人間にして見れば、それ以外にそとの世界というのを理解のしようがないのである。知りようがないのである。他の方法や仕組みといったものを人間は持っていないのである。それが自分というシステムなのであって、そしてまた、これが人間のシステムなのである。人間がお互いを理解し得るのはこのためでである。これが自分にとっての、自分自身の原理や自律性、主体性といったものなのである。   

    連合ー2
様々な要素が重なり合い錯綜し、そしてそれらが全体として、諸要素の構成部分の連合として風景をカタチ作っているのである。要素の連合が風景を構成しているのである。それはホロスコープのようなもので、様々な無限の要素の組み合わせから成り立っているのであって、そのとき、その場所、その事情などによって様々に、まるで別のもののように見えてくる。同じものが表面上、無限の変化を繰り返すのである。これが「連合」ないし全体という意味なのである。
    様々な無限の要素から構成される風景の全体を「連合」として言い表している。これは人間にとっての風景の感じ方なのである。
    これら人間にとっての外的世界の総体としての、連携・連動した、直接・間接の、重複し入り混じった、偶然の錯綜した錯覚が、全体としての「連合的」諸関係を構成していて、そうした偶然の錯覚がもたらした結果としての、共同の作用が、私たち人間にとっての総体としての外的世界、すなわち風景を構成していて、そしてまた、それを現出させているのである。
    つまり、本来、関係がないように見えていたものが、偶然の重なりによって互いに連携・連動し合い、それまでとは全く異質な別のもののように見えてくるということである。あるいは表面上、そのような働きを始めるということである。つまり、見方、見え方、感じ方、そしていつ、どこで、どういうワケでという、そうした偶然の重なりが、または錯覚が、本来、同じものであるはずのものを、まったく別のもののように見せているのである。
    ]

    一般に形態が複雑だという事が、心理上に要素的[条件的]影響を及ぼすものなのかという事は、疑問である。様々な形態が複合した風景が、人間の素朴な心情に及ぼす効果は、そのほとんどがいつも間接に惹き起こされるものである。風景の諸形態は人類の構造に似ていて[?]、これによって、驚愕、娯楽、同情を惹き起こす場合がある。また、この風景の諸形態は、それを見る者の、何かしらの実際的目的を妨害するような関係になる場合もある。そしてこの場合は、憤怒、不愉快、憂怖、危惧、嫌悪などとして作用する。

    われわれがこれら両方の影響を理解しようと望むならば、我々はただ、普段良く知っている複雑な形態の組み合わせについて思い起こせば、ただちに納得させられる。文明人、特に教養ある都会人士がこれによって受ける印象は、もちろん、素朴な心情から受ける印象よりも劣ってはいない。なぜなら、文明人の受ける印象は非常に込み入っていて、後に説明する連合的構成部分に規定されることが最も強いからである。   [p366]

    慣れた生活の風景の中で、カタチの単純性とその強度との対比を表明する、カタチの複雑性が現れる場合、最初に予期されるのは、要素的[条件的]な心情的作用である。この場合、こうした対比はついに明瞭な興奮となる。そうしてこの興奮の特有の色彩は、先ずカタチの容積、大きさによって規定される。

    この場合、小さい丘が多く連なる風景は、心を鼓舞し爽快にするけれども、アルプス的な風景は、心を憂欝にし不安静にする。これを心理的効果から見れば、カタチの複雑性からは常に必ず興奮を生み出すと言ってよい。あるいはこれと反対に、アルプスの景色が平地住民に対して往々心を悩まし、危惧をもたらし、圧迫するように作用するものならば、カタチの複雑性という属性は、カタチそのもののサイズの大きさからくる作用よりも劣る、という事になる。従って、この種の印象は、複雑性というのが、単純なものが巨大な大きさで存在するような場所、例えば、狭い風景の中で最も強く意識される。


      3  風景形態の尺量[サイズ]    カタチが持つ影響は、カタチそのものの大きさによって強く規定される。 もともと我々はこうした方法を、我々の観察の中で繰り返し暗黙のうちに挿入してきた。例えば、長い直線といい、広い平原といい、大きな容積の複雑といい、すべて我々に一定の効果を示すものである。   [p367]

    小さな限界は、それだけでは影響するところがない。もしも影響するとしても、それは人々の計量を呼び起こす程度の場所に間接に影響するに過ぎない。風景形態の巨大なサイズ[容積]はその影響を、恐らく最も多くの場合において、心理的に幻惑させる方向に向かって及ぼす。しかしこのことは、そうした効果が、例えば鎮静のように愉快に体験される場合にも、あるいは威圧、鬱憂、懊悩のように不愉快に体験される場合にも同じである。

   風景が持つその他の要素的諸属性が、色またはカタチの複雑性のように興奮的に働く場合には、そのサイズの大きさというのが強く働くほど、その幻惑的効果はますます強烈になる。この場合、一種の心理状態の抗争、すなわち興奮と幻惑との心理的混合が起こる。気づかわしい興奮、押し付けられる激昂、胸に迫る不安などとして迫ってくるのがそうである。そしてまたこれは、我々が、カタチの複雑性と共に、サイズ[容積]の大きさから来る眺望の影響なのである。例えば、動乱する暴風雨の海洋、あるいは、荒く険しいアルプスの眺めがもたらす影響がそうである。

    カタチの、サイズの上での比較、または互いの眼界交渉がもたらす心理作用は、   [p368]   美学上の問題に触れる。しかしながらこれは、わずかに美学問題の入口に及ぶのみであって、あえてそれ以上に立ち入るものではない。なぜなら、もっとも単純な美的影響は、未だようやく要素[条件]的な心理状態に過ぎないのであって、従って、これを分析するというのは、なお、要素的心理学研究の問題に属すると共に、同じくまた、心理学的美学に属するものだからである。

    構図の中の様々なサイズの関係が、児童や野蛮人、無教育者などに著しい満足を与えるということ、また、彼らがそれを求めるという事は、我々がよく見るところである。この場合に第一に注目されるのは、その単純な規則性である。人々をうなづかせる構図上の「黄金比」が、実際にある要素的[条件的]心理作用を及ぼすのかどうかというのは、はなはだ疑わしい。風景にとって、その中の比例というのは、しかもその規則性の比例というのもまた、ほとんど問題にならない。

    このような風景感情において現れる精緻な美的精神を有する人は、風景が持つ景勝を、自らが持つ自分自身の印象に従って解釈し秩序づける。すなわち彼は、均整やカタチの自律性や黄金比などを、風景イメージの中に作り入れて眺めている。彼は、実際の風景が彼に見せているものに、美的選択を施して一つの理想化された風景を、自分の中で再現している。

    しかし、心情の素朴な人は、風景をそのまま見ている。こうしてこのような人は、   [p369]   一層、美的精神に富める鑑賞者をして失望させる。このような人々は、風景をただ見て感じるというだけであって、「見い出す」とも言うべき風景を、気づかず知らぬ間に見過ごしている。このような人々にとっての風景は、なんら均整もなく、何らの規則性もなく、また何らの黄金比またはその他の要素的な分割もない。

    単純な美に煩わされない精神の持ち主は、風景は「自然」、すなわち開拓された土地、あるいは田畑、街々などに対して、まさに無規則なものを意味している。庭園芸術の歴史は「風景」の現出という事において、その絶好の例証を与えている。こうした庭園がもたらす風景は、美的精神によって造られた技巧的な庭園風景に向かって、意識的に反射された無規則ということをもってその法則としている。それは実に、一切の均整や、律的な形態連関を一切投げ捨てて、そうして自然のままの風景形象を巧みに現わし出したものである。
[ ↑ これは大きな誤解である。日本庭園ほど、最高度に秩序的で計算され尽くされた庭園はない。表面上、非合理的に見えるけれども、それは思考や合理性を通り越した、より本質的で根源的な情緒の世界なのである。この意味で、それは真の芸術なのであり、最高度に人為的な作為の世界なのである。それは、無意識の暗黙の了解や、人間の精神や行動、営みといったものを支配する、不可抗的な誰も決して逆らえない、絶対的な空気が支配する世界なのである。]
     

      4  風景形態の方向    諸形態の大きさは、それが現れる方向に従って、いかにマチマチであるか、従ってそれが我々に及ぼす影響というのが、いかにマチマチであるかという事は、しばしば研究された錯視が我々に証明するところである。風景の容積性は、その内に大きさと相ならんで、諸形態の「方向相」を一体として含んでいる。それは、「容積」というコトバが、時として空間の「方向」を示し、   [p370]   時としてその量(大きさ)を示すのと同じである。[見る方向、または目的によってそのサイズが異なってくる]

    比較的大きなサイズの――これは、知らず気づかないまま、自分という人間のサイズに比較して言っている――あらゆる垂直な風景構造は、心理的萎痺[イヒ、なえてしびれる]という影響を及ぼす。また、カタチ以外の諸要素が共に規定される場合には、こうした萎痺は、真摯(エルンスト)、自負(ストルツ)、崇高(エルハーベンハイト)、威厳(マイエステート)などの象徴として、または圧迫的、憂悩的、萎痺的なものとして感じられる。まっすぐに成長したなおやかな高い樹(まっすぐな成長及びなおやかさは、大きいという印象を偏に著しく顕わにする)、山腹、岸壁などがそうである。

    素朴な心情の人々に対して、最も印象の強いゴチック風の建築は、このような原理を利用して効果を得るというのは、特に注目すべきである。これと異なり、水平で構成された大きなカタチは、もちろん、心理的に萎え痺れるという心理において作用することがあるけれども、その多くはむしろ鎮静、疲労、弛緩、催眠的などの色彩を帯びて作用する。

    純粋な垂直体と水平体との間に存在する一切のもの、すなわち、傾斜した一切の種類の大きさは、何ら単純な作用形式を持たない。その個々の傾向とそれらの間の関係は、これをそれぞれの心理上の効果という点から見れば、「ゆるい坂」という表現の中にその特質が見られる。   [p371]   風景の中で、角を成す傾きがある所では、比較的複雑なカタチが始まる。このような、複雑なカタチとしてのその傾きは、その方向に基づくよりも、一層強くカタチそのものに心理的影響が規定される。


      5  動く風景    美的精神を持つ人々は、カタチの方向の中に「運動」を見ている。そして彼がここから導き出すコトバ、「最適に動かされる構成部分」、「落ち着いた営み」などといったコトバは、普通の素朴な心情の人にとっては全く不可解である。なぜなら、普通の心情の人々が見る運動は、単にその本来の表面的な意味においてのみだからである。こうしてここでもまた、単に運動について言っているのに過ぎない。[運動そのものの意味については誰も何も考えない。考える必要も、動機も、条件についても、彼には持ち合わせがないのである。つまりそうした囲いの中の世界を生きている。だから見えることも気づくことも感じることもない。]

    落ち着いた静かな風景は、それ自体の中にすでに動く構成部分を含んでいる。水の流れ、雨と雪がそうである。これに空気の運動、特にその比較的強烈なものとして、雲、霧、水面、および覆われた植物、草野、叢林[そうりん]、樹木なども動く。この場合、沈殿した[液体・気体]ものの運動は、方向と激しさによって変化し、水流の運動もまたそのように現れる。暴風によって発生した竜巻は、一つの河の流れの知覚を全く遮り、さらにまた反対に、流れそのものの動きを逆にする。

    動く風景の構成部分の心理作用は、方向と速度の点から見て、   [p372]   運動が均整になればなるほど、ますます萎えて痺れるといった性質を持ち、また、この両方から見て運動が不均整になればなるほど、ますます興奮の性質を帯びてくる。入り乱れた運動の印象は、本来興奮的なのである。例えば、暴風の中で狂う海、または暴風の突進に揺らぐ樹木などがそうである。

     それとは反対に、河の奔流、均整に揺らぎ行く波線を持つ荒々しい海の運動、狼の過ぎ行く野、一様な淡々とした降雨ないし降雪は、心を落ち着かせ、倦怠にし、疲労させ、遂には眠りを催させる。こうした作用に触動的要因が重大な関係を持つという事はもちろんであるが、しかしまた、これを単に表面上の形式だけを見ても、やはりそうなのである。

    このような諸作用は、「要素」的なものとしなければならない。これらの作用が、これに伴う音響なくして、運動する物の形だけでそうなるという事は、降雪がこれを証明している。一様に均整な降雪を眺めれば、きわめて幼い子供でも、こうした効果を受ける。子供はもちろん、それが自分を落ち着かせるなどとは言わない。けれども子供は、それ以外の事をするときよりも、はるかに長い時間、降雪だけを眺めていることが多い。実験という確実性を持って、このとき、運動に不規則な状態が生み出されれば、   [p373]   その作用はたちまち興奮の状態へと変わるのが見られる。雪粉が踊り始め、渦巻き始めれば、子供の心におおらかな、興奮した歓喜の発作が起こり始める。雪が「面白く降る」ことになる。

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    美的な感受性は別にして、ただ心理的に感受性が強い人にとっては、絶え間のない均整な降雪が続く、このような要素的状況においては、特に生き生きした活発な印象が呼び覚まされるのは言うまでもない。このような心情は、いつの時代にあっても詩として表現される。
    もちろん、一層精緻な作用の場合、そしてまた素朴な作用の場合にも、冬景色、特に辺りに生じつつある冬景色の他の要素が共に作用することはもちろんである。例えば色、音響の性質(無音響)、連合的要素(「自然界の微睡」)などがそうである。しかしながら、根本的な事情はこれによって変化するということはない。
    しかし、こうした根本的な事情、すなわち降雪がもたらす静かで沈んだ情景に対して、変化する天候の事情がいわば「中止」をもたらすという事を、再度考えて見るのは興味のあることである。我々は前に(第一編第一章、四、降雪の末段参照)降雪に先立つ抑鬱は、その雪が降り始めると同時に「緩む」、すなわち愉快な鎮静感受に変わるという事を述べた。このように気象学的に説明された緩和は、事情によって雪の降りつつある風景情景がもたらした沈んだ静かな作用の中に、その直接の継続を見い出すのである。
    この場合、「事情によって」という事に注意しなければならない。なぜなら、あらゆる降雪に先立って、天候位置が示す状態が必ずしも、南風[フェーン]位置、   [p374]   もしくは雷雨模様、もしくは蒸暑一般と相似て、心理的に圧迫するように、不安静にするように、興奮させるように作用するのではなくて、そしてまた、あらゆる「お天気者」が必ずしも、強い風景的感受性や印象を持つ者ではないからである。
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    運動そのものの影響は、雨、河の流れ、雲などの場合にはきわめてマレである。しかしながら、荒々しく動乱する海、稲穂の波が揺らぐ穀物畑、その他これとよく似た現象の場合には、非常に強い。もちろん、この場合、騒音的要因が降雪の場合よりも影響する所、はるかに大きい。

    不規則に動揺する風景が惹き起こす興奮は、これをその眺めがもたらす、間接的な危険な回想が生み出す憂怖、あるいは少なくとも不安静、危惧、憂悶から切り離すことは、非常に困難である。もしもこのような不安静から逃れようと願うならば、荒れ狂う風景の単なる眺めさえも、すでに自分自身が安全であること、迫りくる危険から遠く離れているという事の「対比」によって、一つの著しい快適の気分が得られる。こうした気分というのは、古い叙事詩的叙述によってしばしば表明されるところのものである。

    均一で整った運動がもたらす、沈んだ静かな作用は、その個々の程よい速度の中で、その極限を見い出す。そしてこの極限を超えると興奮的作用を惹き起こす。   [p375]   こうした影響は、生理的な疲労によってさらに増大するか、(疲労は往々にして興奮する気分に高進する)、あるいは、このような興奮が、弛緩の感情と相入り混じることがある。

    このような効果は非常に急激な水流、または渦巻く激流などを久しく観察することによって、良く知ることが出来る。この場合、疲労はまず目の側面の筋肉から発生する。この筋肉は、流れの運動に追従しようとする、ほとんど不可抗的な圧力によって、同一の箇所を見つめようとする目的との闘争に強く引き付けられる。そうして、この筋肉の弛緩は、しばしば眼球顫動、すなわち瞳孔の痙攣的・不随意的な瞬きと移動・動揺によって示される。

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    この意味において、我々が眺めつつある風景に反対して、我々を急激に他に押しやる一切の継続的運動は、興奮的・弛緩的に作用する。例えば、運行中の列車、特に急行列車の中から見る、行進および自動車の疾走などがそうである。また、水上の船を利用する際には、同じような特殊な鎮静が来るのが常である。しかしこの場合、少なくとも視覚に対しては、このような継続的運動は非常に穏やかなものである。
    緩やかに、そして均整に動き行く飛翔者、すなわち旋回する鳥、ツバメ、膜翅類(まくしるい)[膜翅目の昆虫の総称。 膜質の二対の翅(はね)をもつが、無翅のものもある。]を眺めることによって、愉快で落ち着いた感じがすることがある。しかしながらその一方で、この同じ眺めの――それはもちろん、我々にとっては風景構成部分を意味するのであるが、――飄蕩[ひょうとう]および急馳は、我々に落ち着かない気分を惹き起こす。
    こうしたことが、次のような事態に遭遇させる。――我々は確かに往々、間違ったり迷ったりしながらも、こうした急馳および飄蕩を、本能的に動物の興奮の徴候と解釈する。しかし実は、それは我々自身がそれを見て興奮しているのに過ぎないのである。例えば、児童や婦女教育者などにとって、きわめて急速に運動する動物、疾風のように急送する動物は、恐怖を催させ、憂怖と嫌悪を惹き起こすという事実は、正に、こうした事情に由来する。たとえそれが、連想的で迷信的な作為によって著しく誇張されているとは言っても、やはりそうなのである。そうであるとしか言いようがないのである。また、速やかに揺れる振り子が心を興奮させ、緩やかに揺れる振り子が心を落ち着かせるのもそうである。



       第3節  聞き、嗅ぎ、触れる風景要素


      1  風景における調音と噪音    響きを発する諸要素は、多くの風景印象にきわめて密接な関係を持っている。もしも風景からこれを除き去ると、こうした風景は一つの美学的抽象に過ぎないものになってしまい、そして現実の姿においてもまた、欠陥ある風景、「死せる風景」として現れる。

    こうした「沈黙した」風景は、あたかも異常なもの、見知らぬものにおいて相であるように、「気味の悪い」ものとして感じられる。このようにしてして、ここに一つの消極的作用、響きという要素を欠いた作用がもたらす世界が確立する。すなわちこの作用は、気味の悪い、わずらわしい、不快な効果の全領域を含む。こうした効果は、普通の人々に対して極めて強力に現れる。

    民間に見られる幽霊の恐怖、その他こうした恐怖を誘発紛糾させるすべての荒唐無稽な神話、怪談などの領域においては、黙した風景が著しい役割を演じている。もちろん往々にして恐怖は、個々の音の過程によって緩和されることがある。しかしまたこの音過程は、通常幽霊の付き物である。例えば幽霊の戸を叩くことや、妖魔の呻吟といったものを考えれば、ただちに了解される。しかしながらこの場合、関係しているのは、音響上全く普通の出来事なのであって、そしてこれが出来事の重みや値打ちともなっているのである。全体を支配する静かな沈黙が、暗黒という要素と結合して始めて、彼らに憂怖させるという性質を与えているのである。

    こうしたことは、他の事実によっても説明される。久しく続く同じ騒音は、暗黒の風景に何となく「気味の悪い」感じを与える。雨の音、風の音、小川や堰の音、キリギリスやコオロギの鳴く声、   [p379]   歯車の回転など。その他この種の印象は、すべて、人々がどんな環境中でも落ち着いた鎮静的なものとして体験するところであるが、普通の人々の心情にとっては、おおむねただ、人をして憂怖させる夜間の風景を背景として立つ場合においてのみ、故郷のように感じさせる出来事として意識に上る。我々はここで風景から持ってきた実例でもって述べているが、人々が安眠するために時計の音をもちいるのは、上に述べた諸例と並行する一つの例証である。

    [  <暗闇の音色>
    暗黒の、そしてその中から聞こえてくる、静かな落ち着いた音色が、理由なき恐怖といったものを呼び起こす。自己の無意識の根源に迫るものとして感じられてくる。あるいは、むしろ反対に、こうした無意識の自己の根源といったものが、得体の知れない、理由なき恐怖といったものを呼び起こし、作り出している。
    場合によっては、こうした自分でもよく分からない無意識の、おののきや恐怖、驚きや戸惑いに対して、ムリヤリそのイメージを作り出そうとしている。あるいは、自分の中のどこかにあった忘れていたはずの、何かの印象や出来事と結びつけて、それを理由付けて関連させると共に、そうやって自分にとっての「意味」といったものを作り出している。
    何か、なんでもよい。未知のままでは困るのである。こじつけて、デッチ上げ、捏造し、ペテンでも詐欺でもなんでもよいのである。要は、自分にとっても意味といったものが、どうしても必要なのである。なぜなら、それなくしては、自分が自分でなくなるように思えてくるのである。
    この得体の知れない未知のものに自分がのみ込まれ、食べられてしまって、そうやって自分が破壊されて、自分が自分でなくなってしまうように思えてくるのである。そしたことが暗黒の闇の奥から聞こえてくるように思えてくるのである。一人ごとのようにつぶやき、ささやき、そして誘い、導いているように思えてくるのである。
    だから、どうしても「意味」が必要ななのであって、何でもよい、どんなことでも構わない、錯覚と偶然によって意味を作り出すし、またそのイメージや印象といったものを、自分の中からムリヤリ見つけ出して、関連付けて、正当化しなければならないのである。
    ]

    こうした、つぶやきにも似た同じパターンの噪音は、明瞭な心理的痿痺[イヒ、なえてしびれる]という効果を与える。こうした萎えて痺れるという状態は、鎮静として、そしてもっと強く作用すると催眠状態として、無感情と失神、朦朧とした浅い表象列に彩られた無意識状態として現れる。

    最初、これらの不慣れな噪音がもたらす興奮と心を不安にする煩いがしばらく続く。しかし、こうした興奮と煩いは、すぐに消失するのが常である。森の梢、水がよどみなく流れる音、さらに海面、瀑布、あるいは氾濫する急流がとどろきわたる音は、こうした適例である。それは、この風景がもたらす独自の特質といったものである。   [p379]   それはまた、視覚の構成と同じ方向に作用する。

    しかしまた、それと反対方向に作用することもある。動ける海は人間にとって極めて興奮的に作用することがある。また、小川のよどみなく流れるさまは、爽快で豊麗な風景の中にあって、ただ一つの沈静的要素である。雨天にに際して雨が絶え間なく降るさまは、ただ一つの「緩和するもの」として作用するのが通例である。

    平坦で同じように続く噪音の、本来的に萎えて痺れる作用に対抗して、むしろ一つ一つ断続する、あるいは互い違いに生起する風景の中からの音響は、おおむね、喜ばしめ活気づける作用を生み出す。そして、これら諸要素は、真の意味における調音としての特有の性質を備えていて、動物から生ずるのが常である。鳥の鳴き声は、人間が日々接するその例である。

   鳥の鳴き声は、多くの人々にとって、風景の本質的なものとして作用する。これを、鳥の鳴き声のない晩夏の森と比べて見ると、それは人間にとって、まるで「死せる森」のようで、最も多くのお刺激を奪い去られた森のように思えてくる。このような人々は、都会の真ん中に居ても、一羽の鳥の鳴き声を聞いただけで自然の一片を、嫌が上にも感じ取ってしまう。それはまるで、咲き誇れる花でもって、それを見ているようにも思えてくる。

    これに似た作用は、単に風景を楽しむ場合に、   [p380]   オス鳥の鳴き声からも生ずる。この場合、都会人の特殊な感受性に関係するのが多い。なぜなら、都会人にあっては、彼らの生活舞台と比べられるがゆえに、田舎が都会のように狭溢[きょうあい]にならずに、広漠と配置される点において、すでにそれだけで一つの「風景」を意味しているのである。

    しかしこれは、あまりに慣らされた都会人に言えることではなくて、こうした風景といったものが、例えば農夫にとってそうであるように、自分いとって何ら日常の普通の事でなくなっているがゆえに、その風景に対して感受的になっている普通の素朴な人々について言われる事である。[??]

    こうしたタイプの人々が風景を愛し、かつ、出来ればその風景の断片だけでも、自己の都会生活に持ち込もうと努力するのであるが、そうすることが、風景に対する彼らの心理的関係をもっとも明瞭に差し示している。鳴く鳥の合奏、オス鳥の鳴き声、あるいは小川や森林の音、カエル、コオロギの鳴き声などが、いずれもこの種の素朴な心情の人々にとって、平和――これは風景としての「自然」が彼らに対して意味するものである――を具体的に目の前に現わす、もっとも強い象徴ないし印象なのである。また、だれかよくこのような印象を所有するということ自体が、そうした人々にとって不断に更新される心理的回復、そのリズムと情緒を構成する本質的要素なのである。素朴な民謡は、こうした印象に満ち溢れている。   [p381]

    はるかに敏感な精神の持ち主でさえ、自然に対するときは、直に音響を発する風景の部分にまで迫ってくる、――そこまで迫ることがきわめて困難だとしても、しかし必ず結局迫り近づいてくる。こうして、彼らに向かって打ち開かれた風景形象は、その要素において依然として重要なものになっている。

    高アルプスの光景を回想するとき、誰か牡牛の鈴の音、もしくはモルモットの笛を思い出さない者があるだろうか。そうして最も粗野な音声の代わりに、他の音声が現れてくる。鶫[ツグミ]、ツグミの一種、椋鳥[むくどり]、雲雀[ヒバリ]、鶯[ウグイス]、鶏鳴[けいめい、ニワトリの鳴く声、夜明け]は、その些細な性質のものであることで――この些細性でもってこれら諸鳥は、古くから多くの散文や韻文の風景叙述の中に織り込まれているのであるが――精緻な感受性の持ち主には、もはや相関係するところが少ない。

    このような人々は、それら以外の風景上の音響印象中に、それに代わる特別の象徴と符号を作り出している。自己を何かしらの気分へと誘う無意識のサインを感じ取っている。今日の旅行記では、これを証明する多くの記事にあふれている。もちろん、一種の印象があって、この印象によって比較的に原始的な精神と、比較的に敏感な精神とが分別される、といった事が確かにある。

    この印象によって原始的な精神の人々は、ある噪音が、危険が近づきつつある表徴[サイン]として恐怖を持って聞く。   [p382]   しかし、それと同時にこの響きは、これがもたらす一切の恐怖にも拘わらず、一つの刺激に満ちた風景構成部分ともなって来る。

    こうしたことは、グレッチェル地方の石投げの響き、雪崩がひき起こす遠雷、嵐の咆吼[ほうこう]、はじめて轟く雷鳴、荒い海の激浪の砕け、聚雨によって激増した川の奔流、夜ごとに食を漁りあるいは寒さと飢えに迫る猛獣の咆吼叫哮、交尾期の鹿の風琴、フクロウの叫び(これは素朴な人々をして迷信的な危険として威圧する)、また、霧あるいは雨の降り注ぐ音、その他多くのこの種の出来事についても同じである。しかし、これらすべての事は、これに威嚇されつつある、あるいは威嚇されつつあると感じる心情の人にとっては、もはや風景ではなくて、ただ全くの危険ということに過ぎないのである。

    しかしまた、一層精緻に分化した人々にとっては、現実に威嚇されつつある危険なことに違いはないのであるが、後になって、想像やその意味が思いだされてきて、そうした観念の中で、このような体験は一つの風景回想の構成部分になるのみならず、さらに進んで、我々が「倫理的風景」として分析しようする風景を構成することが少なくないのである。

    世の中には変わった性質の人がいて、こうした風景に対する心理的交渉と関係といったものが、このような危険を知らせるような風景の構成と、全く本質的に結合しているのである。   [p383]   そしてこういう人々は、これによってますます深く、このような出来事としての風景の中に入り込んでゆくのである。

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    あらゆる民間の風景詩は、音響的要素の風景叙述に満ちている。自ら意識的に民謡に相連絡するロマン派の詩には、絶えず織り、鳴り、咳き[しわぶき、セキの事]、歌い、泣き、さえずる声を聴く。しかしながら、むしろ絵画的印象に富む近代の抒情詩もまた、風景中の音響からはるかに離脱するけれども、それでもなお全く喪失し去ることが出来ない。むしろ反対に音響は、無音を強調することによって、かえってその価値を増すことになる。
    それは例えば、ブランデスが世界文学中もっとも人に迫る風景詩と呼べる、ゲーテの力強い詩――「峰々はすべてやすらい、梢さえも息吹かず、小鳥は森に憩えり・・・・」――において既に現れている。
    しかしまた、グスターウ・ファルケの浜辺の小景色を取って見ればよい。「渚は熱セリ、渚は蒸セリ・・・・・・はるかかなたに海は眠れり、ものうげに・・・・・・渚を越えて、熱気を越えて、音もなくカラスが翔ける、かなたこなたに・・・・・・ただ一度、短く鋭い叫び・・・・・・遥かかなたに海は眠れり、ものうげに・・・・・・渚を越えて、熱気を越えて、音もなくカラスが翔ける、かなたこなたに。」
    そして、視覚的な出来事を強く映し出すマッティッソンも、傑作叙事詩「夕暮れの詩」において「、音響的効果を閉却することができない。ただしそれは、ただ二度声を出したに過ぎない。すなわち、サラサラと音を立て、花輪を乗せて黄金に輝く、揺れる葦・・・・・・あるいは魂の囁[ささや]きは谷に聞こえる」と。
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   [p384]    


      2  風景のニオイ    多くの人々は風景に対して感情の上で、単に「好き」とか「嫌な」、すなわち心理学的に言えば、快または不快の評価でもって反応する。またこれ以上に、「興奮的」あるいは「沈静的」なニオイもある。しかしこの場合、例えば色欲的領域におけるように、連想的作用が関係するのかどうかが疑わしい以上、風景印象の構成上問題になるのは、単なる最も単純な反応だけである。

    心よく感じられるニオイは香りと言われている。しかし、香りは風景印象を構成する常住の要素である。例えば森の香り、牧場の香り、芝草の香り、荒野の香りがそうである。しかし、これらの特徴はは、なはだ茫漠としたものであって、それぞれの特徴形成が種々様々なニオイを出す可能性を含む。従ってわれわれは、これが風景に与えるそれぞれの意味を良く分別しなければならない。こうして森の香りは、松柏の香り、あるいは木の香り、あるいは秋の落葉の強いニオイである。

    木と葉のニオイが素朴な人々にとってもなお、愉快なものであるかどうかは疑わしい。豊かに教化された都市住民にとっては、こうしたニオイというのが彼の文化環境に対応して、「自然」が外に現れた印となる。すなわち、「土地のニオイ」がそうである。こうして彼は、彼の心理的反応準備という根本事情からして、   [385]   ニオイに興奮させられる。このニオイの要素[不可欠の条件]的影響は、もはや決して愉快というものではない。それは例えば、浜辺における海藻のニオイのようなものである。それはニオイが弱い場合がそうである。それが強い場合は、最も自然を愛する心情ですら、これを不快にする。

    我々は、ここにニオイの一群を知る。それは「特質的」として表し示すのがもっとも適切である。なぜならそれは、普段は無関心な、あるいは不愉快に感じられるもので、しかし、ある心理状態の下では愉快に働くものだからである。その中には様々な腐敗したニオイがあって、海藻のニオイ、一般に水のニオイ(これは、かつて水中で腐敗した生物のニオイである)、土のニオイ、森のニオイ、などの強さの弱い腐敗臭である。

    ニオイのある強度においては、快楽の生起はもちろん不可能である。この場合、不快の特質が全く要素[条件]的に現れる。腐敗のニオイの大多数は、この中に数えられる。あらゆる動物のニオイ、また植物のニオイでは沼草のニオイ、海藻の強いニオイ、腐朽した嚶リ[油菜・アブラナ]のニオイ(これは特に不快なニオイである)などがそうである。

    けれども、不快に体験されるニオイは、一般にもはや風景構成条件にならないという興味ある心理学的事実がある。このようなニオイは、風景印象から除外され、風景印象と反対の側に位置し、そしてまた、風景印象を「攪乱」する。   [p386]   上述のすべてのことからして、次のような結果が生じる。

    この混乱は、田舎の素朴な人々に対してよりも、敏感な都会人に対してその作用が遅いと。これは奇異に、イヤ、むしろ矛盾するように思われるけれども、しかし、それでもなお真実である。なぜなら都会人は、不快に作用しがちなニオイを、それよりも一層広範な風景鑑賞に同化し去るのであるが、普通の人々は、ある物が良い香りか、あるいは悪臭を発するかを要素[条件]的に、かつ、直に知り得るのである。そうしてただ知ったところで立ち止まってしまうのである。これに対する一つの証明が次の例である。

    臭いの反応においてきわめて寛容な人も、常に快く作用する臭いだけを自らの下へ移植する。寛容でない人と同じく、ただ実際に香りを放つ花だけを庭園に植え、あるいは室内に置く。これに反して、朽ちた葉、海藻、あるいはその他、この種の物は一切、これを自分の家に持ち込もうとはしない。この類のものは彼に対して、ただ一層広い関係からしてのみ、彼を引きつける。すなわち彼に象徴的意味をもたらすのである。

    実際、敏感な人々は、要素[条件]的嗅覚に対して鈍感な人々よりも、はるかに感受的であって、従ってまた都会人は、ますます注意して自分の住家から、一切、いかがわしいニオイの物を駆逐すると共に、こうして敏感な人々にとって、人が発する分泌のニオイ、汗、呼気、オシメのニオイは耐え難い物になっている。

    しかしながら、単純な人々は、   [p387]   このような空気の中でも何の苦もなく過ごす。田舎人は腐敗した油菜あるいは羊厩の悪臭に対しても鼻を覆うことなく、また頭痛、吐き気を催すことがない。しかしまた同じように彼はまた、牡牛、厩、朽ち葉、あるいは海藻によっても、自然の歓喜に入るといった事がない。彼は、何が良く臭い、何が悪く臭うかを知っているために、それが彼の心理状態に対して特別の作用を及ぼすことがない。


      3  皮膚感覚の風景的興奮    自然環境がもたらす温度の刺激が、人類にとって風景構成部分として現れることは、我々が「冬景色」という言葉を思い起こせば、すぐに感じ取られる。「真の」冬景色に属するものは寒冷の感覚である。こうして、書家ですら、見る者がその色彩の印象によって、例えば天空に特有な銅青色によって、「氷のような」、「霜のような」などの感覚を惹き起こさなければ、十分な能力があるとは認められない。

    「真昼の景色」のような印象は、本来熱の感覚に関係するものである。林径[リンケイ・林の中の小道]、巌峡[大きな岩壁に挟まれた谷間]、その他これに類する風景上の諸概念は、人間に対して直に冷涼という温度上の特性を含んでいる。これは例えば、寒冷の場合において、寒さの感じた高まって苦痛となり、それがこのような「苦痛」として風景印象の中に入り込むのではなくて、   [p388]   温暖または寒冷を超越して、「接触の感覚」という全ての感覚が風景印象の構成に入って来る。

    こうしたすべての感覚の、「触れる」ないし交流する感覚というのは、空気から生ずるものもあって、また、風景の中の土地から生ずるものもある。春の日の「柔らかい」空気、「煙るような」空気、「切るような」空気という言い表しは、こうしたことの最良の証拠でもある。野路や林の中の細道の柔らかさ、しなやかさは、街路のの堅さに比べて、人間に対して感覚の刺激といったものが、、風景印象全体の中に、交じり行く無意識の感覚の感じ方を意味している。全感覚といったものが、無意識の世界の中で、自分の印象と象徴の世界を作り出している。

  否[いな]、我々はさらに一歩進めて、単に外部から興奮させられる感覚のみならず、自己の内部の筋肉感覚、間接感覚、運動感覚、疲労感覚、およびこれに類するその他の感覚は、すべて風景的全印象を築き上げるものということが出来る。[むしろ、感覚の刺激がもたらす生理と情緒の変化が、気分や感じ方に非常に大きく作用している] そして、こうした諸感覚は、人間の風景に対する能動的関係によって、また風景の中で繰り返される、継続的関係を媒介としてひき起こされる、風景の「征服」によって生み出される。

    平原において、まっすぐな道を歩くとき、きわめて速やかに疲労を感じ、意気阻喪する。しかしまた、山地においては、これと反対にきわめて爽快に元気づくのは、単に見える景色の単調、あるいは反対に、その多様な景色によるのではなくて、疲労は筋肉感覚および関節感覚の単調さが、また元気と高揚は、山上登歩時に由来する筋肉と間接感覚の、たびたびの交替とその豊かな   [p389]   変化が加わって、そうしたことが知らず気づかないまま作用している。

   これは全身運動であり、これに生理的・情緒的な気分といったものが一体となって、一つの抑揚と興奮、そして身体的爽快といったものをを作り出している。そしてまた、その結果において風景的印象が大きく作用しているのも明かである。リズムと刺激といったものが、肉体と精神のそれぞれに作用し、そして一体化[連合]している。

    しかし、我々はここで重大な困難に遭遇する。すなわち、自然環境がもたらす「触動的」影響と「感覚的」影響との区別、すなわち天候・気候の影響と、風景の影響とを相合に分別することが、きわめて困難だということである。

    人類が遭遇する感覚の総体は、見る感覚や聞く感覚のような 、明瞭に区別し得るような感覚からたどって、ある不明な「自己感覚」に至るまで、幾段階を含む。そしてこの自己感覚においては、個々の感覚は、もはや明瞭に区別することが出来ずに、そうして単に本能的に「感じる」という言葉によって、全体的心理状態の特有な情緒的・気分的な領域を示している。他に表現しようがないのである。

    また、科学的心理学でも次のような見解を示している。この場合、感情的心理生活と理知的心理生活のとの間の、流動的境界が存在し、そして明確な分界線は、ただ随意に設けられているのに過ぎない。これは、科学的にも避けがたいことなのである。古くから正当にも無特質的と言われてきた「内部の」触覚、あらゆる種類の「感情の感覚」は、人間のいわゆる「健康状態」の大部分を形成する。   [p390]   このような内部感覚が、その身体内部の快、不快、鎮静、興奮などとして惹き起こされる刺激の反動として、その健康状態を形成している。 

    [
  このような肉体内部の無意識で不随意の、自分でも預かり知らない、自分の中の未知の世界が自分というのを支配し、そして規制し続けている。これは自分の中にあって自分とは別の、偶然と錯覚だけが支配する肉体そのものの世界なのである。 
  肉体自身が、自分の意思とはまったくおかまいなく、肉体自身の都合だけで、様々な刺激や反応・作用といったものそれぞれが、それぞれに無関係に、勝手に重複し、錯綜し、入り乱れ、混じり合い、絡み合って、そうしたことの偶然の結果が、全体としての一つの情緒や気分のあり方、精神的および生理的な健康状態といったものを作り出している。
  そしてまた、そうしたことを人間は、身体の内部感覚を通して感じ取っている。気持ちや情緒の感覚として、自分自身の肉体内部から感じ取っている。自分自身の内部感覚として、嫌が上にも自分に迫ってきて、そして支配し方向づけている。自分自身の感じ方や考え方、行動のリズムとパターンとして、自分自身の固有の傾向といったものを作り出している。これは個性であって、個としての人間の、そこにしかない特質といったものである。
    ]

    それにしても、このような健康状態がどこの源から出てくるのか? それは、確かめられ捉えることの出来る天候性質の、生物体に及ぼす肉体的・触動的影響から生ずるものなのか、あるいは、風景に適うものとして生じてくる感覚的・観念的印象として生じたものなのか、というのを分別するのは、きわめて困難、否(いな)、不可能である。ただ次のことに注意しなければならない。

    私が見る所のもの、青い空、緑の野は、私を喜ばすにも拘わらず、私自身は心地良くない、――私の目には美しく感じるそらの空気も、感覚的に知ることが出来ない隠れた特性を持っていて、そしてこの隠れた潜在的な特性によって、私の精神状態を好ましからぬ方向へ変えるということが、それである。しかしまた、これと同時に天候作用と風景作用とを区別しなければならない。

    さらに、次の事も付け加えなければならない。人間は柔らかい空気を、自分の皮膚に良好な刺激を与えるものとして感じる。しかし経験から、このような空気の下では憂欝が入り込むのが常であり、従って、風景の印象としての「柔らかい空気」は、それが自分の身体に及ぼす影響とは全く異なるもの、正反対のものであると。しかも、この種の区別がほとんど不可能な場合が多いのである。   [p391]

    例えば「凍る」というコトバは、既にこれら両者を一つにしてその中に含めている。人は、寒冷な空気が皮膚を取り巻くがゆえに凍ることがあり、また、このようにして凍えつつある身体の一部が、もはや暖かくなったときに、凍え初めることもある。前者は冷覚であって、後者は冷却作用によって全身体の上に生ずる健康状態である。

    感覚的な凍えは冬景色に属する。氷を皮膚の上に受けることが、しばらくの間心地良いことがある。徹頭徹尾の冷却によって生ずる凍える不健康状態である。けれども、どこで前者[冷覚]が終結し、どこで後者[冷却]が止むかというのは、ほとんど確定できないことである。

    皮膚の上で動く空気の感覚によって、我々に惹き起こされる愉快な興奮、あるいは不愉快な興奮も、われわれが前に述べた、動く空気の触動的作用として知り得た、もの憂き煩わしい興奮に次第に変わって行く。「新鮮な空気」という言い表しも、また二重の意味を持つ。それは新鮮にする印象と、新鮮にする影響という意味を同時に含んでいる。

    ひとことで言えば、感覚器官に基づく印象は、一層ゆるやかに出現してくる触動的影響に先立つものである。このことは、感覚的印象といったものが、感覚器官がこれに応じて興奮する場合に直接体験されるのであって、   [p392]   これに反して触動的作用は、その作用が現れる前に、まず身体内部で物理化学的な変化がひき起こされて居なければならない。
    
    そしてこの身体内部での物理化学的変化は、常にしばらくのあいだ続く。すべての生物体の情緒と生理の作用は、「筋緊張 (トーヌス)」が激しく調子を変えることを和らげ、そして特に神経緊張に対してかなり緩やかに作用しようとする。つまり、恒常的・日常的であるように作用する。

    頬の凍えがひき起こす快・不快は、人間が霜の空気の中に入り込めば直ちに現れる。しかし、この快あるいは不快は、もし身体が温度を失う結果として、全くの冷却という不快が起こり来るときは、ただちに消えてなくなる。しかもなお、このような時間上の違いは、実際にはしばしば無関係なことがある。なぜなら、触動的影響は、しばしば我々がそれを予感する以前に、また、感覚的影響に先だって、我々の上に作用するからである。

    例えば、蒸暑さ又は天候急変は、我々が空気の直接の感覚的印象を受けなくても、室内に居てもすでに我々に影響してくる。この場合、こうした空気の性質を風景だけで体験し得るのは、こうした風景的知覚といったものが、触動的に興奮する気分の一時的感覚刺激と共に、その最初の作用として現れてくる、こうした気分や情緒の変化として現れてくるからである。

    例えば、ある人がその睡眠も安らかでなく、覚めても疲労と沈鬱の状態にあることが、すべて天候の良し悪しに左右される場合がある。   [p393]   そうして彼が屋外に出ると、顔面を吹く気持ちのよい柔らかい空気が、彼の心情をもっとも喜ばせて、ここで彼に、気象学的な原因に基づく沈鬱をしばらく忘れさせる。いわば、そうした感覚的享楽を生み出している。

    しかし、次第に、さらなる空気の直接の影響の下に強められて、先の沈鬱が再び現れてくる。これは、そのような感覚といったものが、少しの時を経た後には、なんら重要な感情反応を起こすことなく、むしろ無関心になるという事実に基づいている。

    こうして「触れる」要素の領域内において、風景および気象・気候的条件が最も密接に作用しあっていて、結局それらの間に明白な境界などなく、それらが互いに入り乱れ、重なり、相互に錯綜し、複雑に作用しあっている。にも拘わらず、科学的観察といったものは、出来る限りその区別を追求しようとする結果、その為に、いずれの場合にもそうであるように、誤った迷いに陥ってしまう。

    こうしたことは、臭いの場合と同じで、ある原因によってなお困難となる。「触れ得る」、すなわち触動的風景の諸条件は、それらが要素的に、あるいは連合的迂路を通って愉快に体験されるという事によって、風景の印象の中に入って来る。従って、ただ要素的体験だけが問題になる単純な人々にとっては、風景の諸要素・諸条件の数はきわめて少なく、こうして暑さ、寒さ、湿気、風などは彼らにとっては、もはや風景ではなくて、風景享楽を無意味にするだけである。   [p394]

    複雑な感覚であって初めて、印象を風景の中に持ち込んで、そうして初めて何かしらの風景イメージないし風景性質が持つきわめて特殊な状相を体験することになる。

    一般の人々の雨天に対する不機嫌は、 ――すべての間接的な副作用、例えば計画のキャンセルなどを一切除いて言えば、―― 三つの直接の経験事項から成っている。
  1、 触動的に、大気の状況が及ぼす気象学的影響。
  2、 天空のもの憂える灰色と、光が一面の単調さで現れる風景の印象。平面的で眠ったような、色彩を欠いた、例えると月明かりの下で見るような世界。
  3、 皮膚の冷覚および湿気の感覚に際して、あるいは風のムチ打ちに際して起こる不快。しかしながら、これは本来の風景的なものではない。これに反して、良い天気の場合には、空気の静穏、あるいは暖かな動揺は、風景の印象の構成部分になっている。自然環境の触れる刺激の風景性が、その刺激の性質によって定まるのであるが、しかしまた、これによって風景による人間への作用といったものが、簡単に確かめられ、あるいは知られてくるといった事はない。

    <
    ここで新たな疑いが生じる。われわれが一方に天候と気候を置き、一方に風景を置いて、この二者を分別するのは技巧を弄するものではないかと。「天候」というコトバは、日常の用法において常にそうであるように、ある一定の天候状況に際して現れる感覚的諸印象の全部を含んでいる。
    単純な人々は、通常「地方」、「自然」、「眺望」ないし「大観」などのコトバでもってこれを語るけれども、   [p395]   これを概括して言うときは、本来ただ土地を指すコトバであって、大気を意味するのではない。彼にとっては、青空もまた、森、牧場、水、山、谷などが「風景」として刺激を増す「天候」なのである。こうして彼は、風景から感じる性質を、土地の景観から直接生じたものとして感じ取っている。
    もちろんこの場合、風景以外の無意識の触れる感じ、触動的で生理的・情緒的感触といったものは意識も自覚されないのである。見える風景は、こうした意識されることない、自分を取り囲む「空気」を通して、自分の中に入って来ている。無視することも逃げることもできない物理的・時間的な作用として、人間の無意識の世界を支配している。そしてまた、その上に意識や思考や感じ方といったものが作り出されているのである。
    例えば深谷あるいは針葉樹林の寒冷の地のような場合おいてのみ、こうした触れることの出来る諸性質が、彼にとっての本来の風景となる。にもかかわらず彼は、例えば、秋の野を一面に覆う生新の風景を、特に大気から生じたものとして、これを再び天候がもたらしたものとして帰す。こうしたことは、すべて原始的な風景感受性を想定させる。
    しかしながら、風景感情が強く心に現れるに従って、ますます不可分離的に、感覚的な大気の状況が風景印象の中に入ってくる。こうした感覚的に有効な大気の状況が、風景という言葉が定着するのに従って、ますます風景という概念の中に入って来る。これは視覚上および聴覚上の刺激についてもまた、そうである。
    「イタリアの風景」という言葉において、想像はまず第一に晴天を見、「雨景色」という言葉において灰色の空を見、「シュワァルツウァルトの景色」という言葉において樅ノ木と野川とのささやきを聞く。また「牧場の景色」においては、ほとんど常に霧に想い至る。これに反して空気を通して「感じることが出来る」性質は、意識に対して今日なお、普通には風景的なものではないとされている。それは、無意識的にもまた、経験される風景印象の全体を構成し得るとはいえ、それは天気あるいは気候の特有性として現れる。
    天候学は、「天候」の概念から次第に一切の「主観的なもの」、すなわち感覚的に感じられるものを持ち去って、そうしてこれを客観的なもの、すなわち実験的に説明することが出来る物に限る傾向と共に発達してきた。   [p396]   例えば、発光の豊かな状態を表すのに「青き」または「灰色の空」をもって表現せずに、正確な計量数値をもってする。すなわち、温度はすでに久しい以前から水銀の度により、運動は機械的数値の速度によって、内容の構成要素としての臭いは、その特性によらずして化学的文字式によって言い表される。
    従って、感覚的なものを大気の状況から分離し、あるいは奪い去ることによって、天候と風景という概念の行きつくところは、明らかに数値が、感覚が排斥したものを摂取するという点にある。この時点で、すでに到達していた発達の一段階を越えて、さらに一つの目的を示して、その中に示される原則的傾向を正確に最後まで推考して行って、我々が仮に想定していた限界を取り払って、あらゆる「触動的」なものを天候の影響として、あらゆる「感覚器官的」なものを風景の印象として解釈するのは、まさに我々の目的にとって全く正当な事柄なのである。
    既に述べたように、温熱的および機械的に感じられる、すなわち「触れる」ことが出来る刺激の領域内においては、自然環境としての天候と風景の両方面が互いに影響し合うということをよく意識して、そしてこの分離を究極にまで、達し得る可能態にまで貫き通すという事が、単に科学の権利であるだけでなく、実に科学の義務であることを意識してすることは、実に正当なことなのである。



    [p397]
      第2章    風景のカタチとその性質


    風景の心理作用は、一つの点において天候と気候の心理作用とは注目すべき対照をなす。天候と気候の心理的影響の場合、質朴な人々は、自分が気象と気候の影響を触れ得る限り、彼が「天候」あるいは「気候」と名づける個々の事象の複雑な積み重ねをもって、この感じられる効果の原因とする。

    例えば、「悪しき」天候、「悪しき」気候のような、粗野な概念の構造ははなはだ複雑なのである。また、科学的分析が進むにつれて初めて、こうした作用がますます天候ないし気候の個々の成分に帰せられる。しかし、風景的事象に関しては、我々は正しくこの反対を見る。単純な心の人は、主に風景の個々の特性に引き付けられ、あるいは突き退けられ、興奮させられ、あるいは沈静させられるのを感じる。筵[むしろ]の線、天空の青、鳥の歌、渓谷の冷気、陰道の寒冷などがそうである。

    普通の人々の「自然享楽」を見れば、彼にとっての享楽が全体よりも、むしろ明らかな細密の点に向かう事がわかる。風景が不愉快に作用するときも、またそうである。例えば、夜景の恐ろしさは、暗闇、または月光によって奇異に歪められた個々の物体である。   [p398]   また、感覚に対して圧迫するように横たわるものは、左右の岸壁の一定の高さである。

    心理組織が単純であればあるほど、全体としての風景印象が心理組織に及ぼす影響といったものは少ない。しかし、人が風景に対してますます敏感になるにつれて、その全体としての風景的気分といったものが生じてくる。例えば、色とかカタチについての、聴覚および温熱上の様々な刺激は、合して一つの極めて複雑な全体としての印象を形成するに至る。

    にもかかわらず、天候に対して感受性の強い人々は、普通の人よりも一層強く、彼が天候の効果として経験した心理状態を、個々の天候要素に還元しようと試みる。しかしそれは、往々にして的外れな勘違いであることが多いけれども・・・。しかしながら、この全体としてのあり様は、簡単に了解される。その心理に及ぼす天候作用は、主に苦痛をもたらし、そしてまた、人が敏感になるに従ってますますこの苦痛の方面から自己を観察し、かつ分解し得るのはすでに我々の知るところである。

    そして風景の作用は主として享楽である。こうして人間が敏感になればなるほど、ますます複雑な成分を一つの享楽に結び付けてくる。この場合にもまた、先に確立されたことが十分に成立する。すなわち、天候感受性と風景感受性とは、必ずも一致しないということである。   [399]   しかも感受性の強い者は、天候にも風景にもこれを見る。ただ、それぞれが種類を異にするだけである。

    天候の苦痛と並んで天候の喜びがあるのは当然である。しかしながらその喜びは、数多くの人々がそれをもって風景の喜びと言うのを別として、疑いもなく苦痛によって為された分析の中に引き入れられる。こうして風景の享楽と並んで、またその反対が存在するのはもちろんである。しかし、風景に敏感な人々は、一層その享楽能力を拡張して、享楽に反抗するような風景的事象にまでこれを及ぼす。すなわち彼は、不快を享楽する。このことについては後に詳しく述べる。

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    人あるいは反駁して言う。風景感受性はさらに一層高揚するだろうか、そしてまた元に戻るだろうと。例えば、風景画家が風景の印象を視覚だけに偏って経験することによって、音響と触れる風景刺激の全体が再び分裂する。しかもなお、風景に対するこのようなより狭い、イヤ、最も狭い意味においての美的把握が、我々の観察の領域の中に入って来ない。

    世間の人が良く知るように、一人の単に風景感受的な人と、一人の画工とが共に連れ立って散歩するときに、両者が互いに了解し合うという事が、いかに困難なことか。単に風景感受的な人から見れば、画工は単に原始人の段階にあるように思えてくる。つまり、画工にとって風景は細かい事項に、断片的で部分的なものに分解され、こうして風景の気分全体が感じられない。

    あるいは、あの絵画をもって一つの純粋唯一の、光の芸術であるとする印象派の出現以来、   [p400]   こうした対照はさらに著しくなった。なぜなら、この派の出現以降、風景として見て、また絵画に再現しようとする物は、単に純画的にのみに知覚しない人々が持つ、「風景」という印象と比べると、著しく狭く偏っているからである。

   もちろん、このような断定は何ら価値判断を含めるものではない。印象派はこれにも拘わらず、絵画の正当な職分を初めて見出したものという事が出来る。あらゆる芸術は、現実のある状相を、実にその一面だけを捉えるものに過ぎない。ただ印象派的にものを見る芸術家が、その創作したものを「風景」として承認することが、風景感受的な心情の持ち主に対してもまた、いかにしばしば奇異な感じを抱かせることが多いことか。ゾラの「自然の一隅」は、このような心情の人にとっての、それを適当に言い表している。



      第1節  風景のカタチの総合


    要素的風景経験と包括的風景体験との中間には、考えられるあらゆる中間段階がある。従って、風景の総括は、簡単にも、また複雑にも為し得る。われわれが風景のカタチとその性質と名付けるものは、あるいは原始的な過程の結果として、あるいは複合的・総括的な過程の結果として存在する。この過程を知ることなくして、これがもたらす心理的作用を了解することは不可能である。   [p401]

    1  風景的類化  人間が経験する数多くの感覚器官による印象は、これに相応すべき、何ら感覚刺激がないものまでも含んでいる。我々はまた、そのもの自体の中には本来存在しないものを、ある印象の中に組み入れて見て聞いて感じ、そして味わい嗅いでいる。これら本来存在しないものは、回想から生まれる。


   [  -20/06/16
  これら本来存在しないものは、回想から生まれる。こうしたことは、これらがかつて新しい印象が生じたときに、それが集まり積み重ねられていって、そしてそれが出来事の経験として、そうした物や印象や、また、何らかのそうしたことが無意識に想いだされる記憶の断片の象徴として、浮かび上がって来ているのである。もちろん、それが果たして何の事なのか自分でもよく分からず、思いだせずにいるのである。
  人間は現実にないものまでも、見たり聞いたりすることがある。これは錯視・錯聴なのであるが、思い込みや願望、そして疲れといったものも大いに作用している。しかしそれだけではなく、人間というのがもともとそうなのである。こうした思い込みや個人的な無意識の願望なしには、人間は何かを感じることも知ることも理解することもできないのである。
  すでに自分の中で、そうした受け入れる下地があるからこそ、外の世界が感じられもするし、意識もされるのである。それは、新しい印象といったものを、何らかの自分がかつて経験した、自分でも気づくことのない無意識の記憶のカケラとどこかで結びついていて、あるいはムリヤリ結びつけていて見ているのである。
  たとえ未知のものであるとしても、この未知のものであるということ自体が、自分にとって知らないもの、自分の中にないものとして意識されているのである。言い換えると、自分の中の無意識の記憶と照合しているのであって、そしてまた、このような手がかりなしには、人間は何も印象に残らないのである。また、印象として映し出すこともできないのである。何かを感じることも知ることも出来ないのである。それがあるからこそ、彼はそれを未知のものとして知ることができるのである。何かを感じたり知ったりするのは、こういうことなのである。
  自分の中で、そうした何か新しい印象と結び付くものがなければ、あるいは少なくとも、たとえムリヤリでも結び付けるものがなければ、何も感じ取ることが出来ないのである。たとえそれが、確かな記憶にないもので、それどころかボヤけてもうろうとした、何かしらの意味不明の記憶の痕跡に過ぎないものであっても、やはりそうなのである。
  自分の中で、何かそれに対応するものがなければ、感じることも知ることもできないのである。共鳴し、響き合い、すり合わされ、そしてそれを外に向かって反響し、響き合うものが、自分の中のどこかにあるということである。自分の中にある、こうした得体の知れない正体不明のもう一人の自分が、外の現実を、自分の中で反射して映し出しているのである。自分の中で反射するものがなければ映らないのである。
  外の世界を自分というシステムが、どこかで共有していて、そしてそれに反応しているのである。外の現実を、自分というシステムの中で再構成して見ているのである。つまり、観念化しているのである。無意識の記憶の中でカタチにしようとしているのである。自分にとっての、そして自分自身の意味と理由といったものを見い出そうとしているのである。それは、どうしても必要なことなのである。「自分」とは、まさしくこのことなのである。そうやって、自分というのが意識され、自分というのを了解し、自覚しているのである。]

    [人間は、こうしたことを不随的に、無意識の印象から生ずるものと同時に直接経験する。そして堆積して、そしてそれを基にして、そこから馴れや習性・習慣、常識といったものがカタチ作られてゆく。当事者たる人間の意思が預かり知らぬところで、人間の意思を規制し方向づけて行く。また内面的には、主体として当事者本人の固有で自律的な傾向、好みや願いや信じるものといったものを決定している。様々な地域において、歴史的に現れては消えていった、種々様々な民族の固有の習慣や常識、システム、そして信仰と宗教とシキタリを形成して行く条件になったのではないだろうか]


    こうしたことは、これらがかつて新しい印象が生じたときに、それが集まり積み重ねられていって、そしてそれが出来事の経験として、そうした物や印象や、また、何らかのそうしたことが無意識に想いだされる記憶の断片の象徴として、浮かび上がって来ているのである。もちろん、それが果たして何の事なのか自分でもよく分からず、思いだせずにいるのである。そしてこれが偶然の錯覚となって、感覚の記憶に結びつくのである。

    人間は、こうしたことを不随的に、そしてそれにかかわる印象と同時に直接経験する。こうして我々は、不明瞭に話されたことも了解する。例えば電話におけるように。また、我々は印刷の誤謬に妨げられることなく読み通すこともできる。

    非常に視覚的、あるいは聴覚的な「空想」を持つ人は、間隙あるすべての障壁において、戯画と様々なカタチを眺め、また、あらゆる響きの中で一つの旋律を聞き分ける。ある種の心情状相、「気分」といったものは、このような昔に獲得した知覚の積み重ねを通して、さらに新たな知覚を改変することに、すこぶる適っている。

    こうしたすべての過程をブントは「類化」と名付けているが、それは風景印象の生起に大きな役割を演じているのかどうかは疑わしい。とにかく希少な彩筆塗膜を用いて、人を欺いて一風景と見せるこうした「劇」の背景は、実に類化作用が跳梁する、偶然と錯覚が支配する世界である。

    しかしながら、現実の風景の中にあっては、   [p402]   我々は、それに本来含まれていない感覚的なものを、こちらから新たに加えて、見て、聞いて、触るといったことは稀である。しかしながら、こうした新たに添加される感覚的要素は、それらが主に作用するところにおいては、強大であって、風景形象の総合においてはむしろ、類化の反対作用、すなわち我々にとっての、「風景の異化」という作用が問題になる。

    例えば、一つの感覚印象の原因が非常に強大で、その部分に遭遇すると――これによって、人間は意識の多少こそあれ、すべての物を見て聞くなどしている――同化の傾向が細かに粉砕される。そしてこのような場合には、我々は強い不快に圧倒される。すなわち、印象は我々が予期し無意識に信じていたものを失望させる。

    例えば、ある食べ物の全印象は、視覚上、聴覚上、味覚上、および触覚上の様々な要素からなっていて、これに基づいて、それらの全印象といったものが、一つの定められた色沢、暖かさ、堅さ、および美味を持つことになる。

    しかし、これらの諸要素中の一つが欠けていたとしても、食べ物に無頓着な人が、それを好んで食べているとしたら、我々はこれをもって直に同化作用と言う必要はない。彼はこの欠けたものを補うこともせず、それどころか、おそらく彼にとってはこの欠けたものは、何ら必要がなく、彼にとってこの食べ物は、単にそれが美味なるがゆえに、あえて美味なように、今もまた美味なのである。   [p403]

    これに反して美食家は、その食べ物の諸要素を詳しく吟味し、そして欠けたものをこちらから加えて同化することは思いもよらず、むしろ彼は、それを特に強く意識し感じる。こうした鋭い知覚のために、他の諸性質もまた、それぞれに効果を喪失するに至る。このような「異化作用」は風景に対してきわめて多く起こる。

    この場合、かの味の場合におけるように、欠けているものは、全く意識に上らずに、ただ何かが欠けているということだけが、漠然として、しかしまた確実に意識されている。しかしまた、欠けている何かをこちらから組み入れて見ることは、いわば、我々がさらに別の、未だ表面に現れず隠れたままの特殊な相を、この風景から抽出して見るという事は、これとは全くその趣きを異にするものなのである。

    例えば、人間に対して鳥の鳴き声は直に単調な風として、暖かい気流は煩わしい風と思えてくる。太陽が隠れた場合に伴う不快もまた著しい。こうして人間の気分と日常を支配する、人間の中にある恒常的な愉快という条件を感じられなくしてしまう。ここにおいて全印象が分解してしまう。これがすなわち「異化作用」なのである。

    ここから、さらに一つの同化的な過程が開始される。そしてこの過程は風景を全体として見た場合、根本的に重要なものとなっている。こうした過程を了解するためには、   [p404]   我々は次のような心理学的事実を思い起こさなければならない。心情状相の全体の中には、人をして不快なものをも容易に愉快と感じてしまう一面がある。

    このような、見たところ不可能ことがどうして可能になるか、ここでは、それはしばらく置くとして、これが事実であることは争う事が出来ない。「哀愁」は、このような状態である。挽歌、感傷的気分、戦慄などは人が知るように、素朴な人々にとっても、よくある気分である。そしてもっと複雑な気分の持ち主にあっては、一層複雑な沈鬱に陥る。

    さて、異化された風景印象が持つ気分の色彩は、かつてどこかで経験した、自分の生活の中で惹き起こされた気分の色彩と著しく似ている。ここで我々は、自分自身の風景の印象の中で、自分自身の心理状態のカガミを見ている。すなわち、風景は、自分自身の内部世界と共鳴している。

もとより、この場合に我々は、この風景のカタチを確かに以前から保持している。またそうでないと、風景として感じるということが出来ない。そして初めにこの風景のカタチから、ものさびしい感じが欠けて抜け落ちた、特殊な状相が我々に現れてくることがある。そしてこうした気分といったものが、優り、支配的となれば、我々はただちに、風景を積極的に「憂欝的」なものとして新たに築き上げる。

    これを築き上げるに当たって人間は、風景の中で快楽であったものを、ことごとく同化によって憂欝に感じることになる。そしてこのようにして、一つの全く新しい風景が総合的に生み出される。もちろん、こうした過程は完成されるということがない。   [p405]   風景の中には、同化にとって良い材料もあれば、また少しも良くない材料もある。最善の材料は、それ自身において関心を持つ、そして多くの者が好んで自己を移し入れることが出来る、そうした風景である。

    従って、このような風景のカテゴリー、例えば、平原が風景感情に付け加わることによって、これが主要で支配的な「風景の気分」になる、といったことは少しも偶然なことではない。「平原を発見する」という用語は、全く絵画的な瞬間を除いて、平原というのが人間にとってどうでもよい、関心のない所だったものから、自己を他のものに調和させる、他のものの中に自己を見ている、そうした特に開かれた寛容な人々に受け入れられ、そして意識されたものに他ならない。

    このように、最初に異化作用があって、次いで同化作用があり、そうして、ここに新しい風景のカタチがいったん築き上げられると、この風景のカタチが回想として作用し、場合によって、自己を新たに乱し困惑させる様々な出来事の上に、強い同化的威力を及ぼすのである。

    言い換えると、光のために風景が愉快に着色されると、その要素は、悲哀の気分であるにも関わらず、同化されてしまうのである。墓畔の太陽は、常に「悲しげ」に見える。これは、憂欝に感じられる風景においては常にそうである。このようにして風景の印象は、常に主観的となる。これは、あたかも自己の同化的活動が、知覚の感じ方を変形させたかのようである。

    これと同じように、   [p406]   風景のカタチといったものが、あるものを爽快に、あるいは悲しく感じさせるといった事がある。人間がこれを区別しようとする場合、快楽に近い印象は、おおむね要素的な印象であって、またこれが反対の印象の場合は、おおむね、回り道を経て現れた印象であるということが出来る。

    なぜなら、素朴な心情は、風景から主に楽しい印象を感じるか、あるいは、そうでなければ、何らの印象も感じることがないからである。いわゆる「風景」は、彼に対してただ、彼が自然の光景に接して喜ぶときにのみ発生する。しかしまた、例外もある。場合によっては、この関係が反対になる場合すらある。我々は、やがてこのような例外の場合に遭遇する。しかし、またそれは、稀な場合に過ぎない。



      2  風景的象徴化、あるいは象徴的風景。    先に述べた同化、異化、および再同化の課程は、無意識に行われる。ここで無意識というのは、自分以外の誰か他人の考えに基づく指揮管理ではなくて、自分自身によって行われるものを指している。その過程は、後の分析を待って初めて明らかになる。しかしながら、非風景的な表象構成とその範囲に基づく、一つの定められた気分といったものが、どうもすると風景に導き入れられ、風景に基づいて経験される。

    その最も有名な事例は、自然の死としての秋景色の叙述である。この場合、いかなる要因が第一のものであるかは、   [p407]   容易に確定することが出来ない。自然における凋落と、人類の死との間には、両者を深く観察すると、確かに異なる作用が存在するが、顕わで著しい類似もまた存在する。

この類似は、すでに民謡においてしばしば詩的に言い表されている。これによって死を思い起こすとき、人類を、少なくともその大多数を襲う悲哀の気分といったものは、秋景色に移し入れられ、そしてそれが及ぼした結果なのだろうか。あるいは、日が短くなるということ、霧、冷気といった「秋の哀れ」、そうした威圧する感情の影響が、こうした死の気分のようなものに結びついた観念を呼び覚まし、そうしてこの種の気分の糸に綴られて、はじめて、秋と死との間の客観的類似が生じたのだろうか。

    このような心理学的問題を確定するということは、きわめて困難なことであるけれども、それでもなお、第一の過程は一層真実に近いものがある。なぜなら、秋を概観すると、なんら威圧的なものが備わっておらず、また、素朴な心情において特にそうであるからである。

    秋の「凋落」は、繚乱豊麗な色彩に覆われる。また秋はもっとも最も豊富な成熟の時期でもある。田舎の生活から収穫がようやく終わって、祝祭が相次ぐ時期でもある。葡萄の摘収の時期、そして近づきつつある冬の休息を望む時期でもある。そして、すべてこれらの出来後の背後にある「秋の哀れ」、すなわちその凋落を見る者は、これに応ずる類推観念をもって、早くも秋景色に接しているのである。

    次にまた、灰色の空の下に立つ晩秋の、 [p408]   厳しい秋の気配が支配する風景、霧雨や風に湿る、その11月は、それ自身をとって見れば、温帯における早春の風景が概ね無趣味[?]なのに比べて、サマになっていて、憂わしいものではない。従って、我々はこの過程を以下のように言うことが出来る。

    瞑想的で空想豊かな自然観察は、それが秋と死との間に認められる類似によって、秋景色に対して一種の感傷的な気分を惹き起こし、そしてこの気分は、終いに秋景色そのものを憂欝なものにしてしまう。そうして景色は、素朴な現実の人々が自分に喜ばしい、腹立たしい、慰めのない、悲しいなどという気分を惹き起こすものに、直接に喜ばしい、腹立たしい、慰めのない、悲しいなどという名称を付け、またそこからきわめて単純な習性・習慣といったものを不随意・無意識に作り出す。これが馴れである。そしてこの慣れが固着し常識となって日常の普通の生活の型となる。そこにしかない、固有の自律的な生活のリズムになる。

    これは風景的なものを象徴化しつつ改変する形式の一つである。一つの風景と一つの生活上の出来事との間の、思想上の類似がその根底にある。こうして生活事象にまつわる気分は、本来、全く別の原因からの感情といったものを、感情そのものという、原因から切り離されたものとしての感情として、それ自身で高揚させて行く風景に結び付くに至る。

    [  感情それ自身にとっては、原因などはどうでも良いことであって、そんなことよりも、自分自身の理由と意味といったものが、何よりも深刻かつ切実に求められるのである。何がどうあっても、その意味というものをどうしても見つけなければならないのである。そこで今ある自分に見える風景に、それを見ようとしているのである。さしあたり、これが今ある自分の現実の姿であり、自分にとっての見える外の世界なのである。  ]

    第二に、気分は、いわば能動的な象徴化の要素である、ということについては、暗い風景がその適例である。黄昏や月光がすべて、空想的類推作用を呼び出す自然物を、不思議に歪めて示すのは事実である。しかし、これらの類推は、もしも本来悩み悶え、   [p409]   恐れおののき、憂える闇の心情的作用が、空想をも強くこの方向に押し出さなければ、ほとんど滑稽な娯楽になってしまう。

    この場合に常に風景を、いいえそうではなくて、一般に環境を認識させる暗黒状態は、自分自身の観念の作用に対して、かの黄昏や月光のような豊かな活動範囲を提供する。闇の風景は、このようにしておびただしい幽霊的な諸特性に満たされることになる。そうして、このような暗黒の景色は、これら諸属性の中において心情を憂い恐れさせる空想を、それが働くほどますますこれを憂怖させる原因を生み出してゆく。

    この場合、特殊な風景印象ではなくて、むしろ憂怖させるものが直接の改造要因になることは、自然神話における次のような経験がこれを証明している。すなわち、風景の暗黒という属性以外に、圧迫する奇異な諸属性、例えば真昼の気分、すなわち人なく極めて寂寥であること、および森林、すなわち孤独、寂寥、湿潤な空気、隠遁潜伏の場所、要約すると、危険を内に含み得る一切の出来事が、同じ意味において象徴化の機会を提供しているのである。これは、多少おだやかな意味においても、やはりまたそうなのである。

    風景は、個々の偶然の出来事から生じた、気分の象徴と言える。なぜなら、風景によって動かされる心情といったものは、日常で経験するこれと似た気分と結合した、一切の出来事を風景の中に移し入れて、見て聞いているからである。また、それと同時に、そうやって自分で自分を見ていて、また、見ることができるのであって、そうやって自分で自分を無意識のうちに納得し、何か意味のある存在として思えてくるのである。生理的にも、情緒的にも、心理的にも、そうなのである。


    [  p409末尾 20/06/21: 風景は、自分にとって個々の偶然の出来事から生み出された、何かしらの象徴といえる。それが何なのか自分でも分からないのであるが、それでも、しかしまた、それが何なのか、どうしても知らなければならないものなのである。理由などは、どうでもよいのである。ただ単に、表面上だけでも理由でありさえすれば、それだけで良いのである。理由だけがどうしても必要なのである。そしてそれは、自分にとってどうしても必要で、なくてはならないことなのである。それは、自分自身の存在理由にも関わることなのである。
    自分にとってのこうした「象徴」を通して、人間は自分の外の世界を見ているのであって、それはまた同時に、他者と自分を区別することによって、自分を見ているのである。また、そうしてこそ、自分の外の世界を何かしら意味のあるものとして、納得しているのである。また、そうやって反対に、外の世界を通して自分自身というのを意識し、自覚することが出来るのである。外の世界の現実というのが、自分の中で反射して映し出されているのである。それはまた同時に、自分の中で反射するようなものがないと、映し出されることもないのである。ここで自己と他者が区別されるのである。
    象徴とは、何かしらの偶然の錯覚なのであって、意味や理由といったものが、何かしらのサインないし符号と化したものである。あるいは、記号、暗示、類推、示唆しているものとも言える。人間をして気づかず知らないままに、どこかへと導き誘う「道しるべ」のようなものであって、まただからこそ風景といったものが、人間にとって意味や理由を持ち得るのである。  ]


    [p410]
    <  風景的改編は、一般に風景体験の最も古いカタチである。なぜなら、自然神話が発達した地域では、常にこの自然神話の生起、すなわち、象徴的改編作用の徴候が見られるからである。これに反して「近代的」風景体験は、風景の象徴化よりも、はるかに強くその同化作用に基づいている。
    しかし、これはむしろ当然のことである。なぜなら、象徴化は一つの心理学的過程であって、本来、観念と心理運動からなるもので、同化は半意識的な感じ方と流れゆく気分、すなわち、最近数十年間において我々の自然に対する感じ方をますます完全にした、ランブレヒトのいわゆる「生理学的および神経学的印象主義」の仕方でもって作用するものだからである。
    これに相応する同化的な風景改編は、むしろ感覚的・観念的精神の人々に適したものであって、素朴な心情の人々は依然としてなお、象徴的に感じ受けている。例えばザクセン・シュウァイツの絵画のような、砂岩石の形象、ないしベーメンにおけるアーデルスバッハ・エッケルスドルフの岩都のように。
    これら、象徴化作用に広い活動範囲を提供する風景は、彼らに特別の吸着力を与えるものであるが、これとは反対の、彼らにとっては無関心な、つまり従って、同化作用に適した平野といったものは、風景改編にとって何らの影響がない。
    いままで述べてきた風景上の、こうした両種[象徴化と同化]の総合において、風景の体験可能性の両極端を見る。もちろんそれは、この両者が純粋に現れる限りにおいてそうなのである。多くの場合、これら両者[象徴化と同化]はほとんど分析できないような混雑を呈している。しかしまた、この両可能性は、倫理的総合の次の形式において再び遭遇する。 >


      3  風景の倫理化
    風景を現わすあまたの特性は、すべて道徳的色彩を帯びる。真摯な、崇高な、豪壮な風景。温和な風景。傲慢な流れ、執拗な柏木、あるいは岩壁、   [p411]   神々しい沈黙など、これらにしばしば用いられる用語は、多かれ少なかれ倫理的な、人間の生活状相を風景に付与するものである。

    また、「柔和な」、「親しい」などの美的な形容詞も、それ自身が倫理的色彩を帯びることがしばしばある。こうして風景のカタチを表す形容詞は、人類の属性の上に適応されるものであって、この場合、それがその起源に復帰することが往々ある。すなわち、「コブ多い」柏木と言えば、多くはただそれに相応するカタチの上での特性や、その特性が持つ美的効果などが考えられるだけでなく、多少その性格をも言い表している。このような性格の言い表しは、一つの柏木において「コブ多い」人の特性を思い浮かばせるものである。

    こうして、このような風景観照が素朴な心情には、極めてふさわしいということが、すぐに了解される。なぜなら、彼らにとっては自然の擬人化が容易に行われ、人間のこうした出来事の中での最も強い性格状相、すなわち道徳的特性に着目し、これをもって他の人々に対して希望すべき、あるいは恐怖すべきものと記憶するからである。

    しかしまた、他の方面においても、ある気分状態が発生する。これが複雑な心情の人々をますます道徳的変化の方面に押しやる。また往々にして、敏感な人々にとって、あたかも善悪の区別が消失してしまったかのような、感じを呈することがあるが、さらにこれを詳しく観察すると、   [p412]   それは、おおむね単に人間同士の間の粗野と慣れ、荒く大まかな交渉において見られるだけである。こうしたことは、敏感な人々にとっては、粗野な道徳的選択を嫌い、デリケートな道徳上の差別を感じ受けようとするからである。

    こうして敏感な人々は、さらに空想のカタチの生まれ出るところに従って、またこれを詩的に表現すると、自分の気分の赴くままに風景を擬人化しつつ、その微妙な道徳的区別を体験する。もしも我々が、人間の複雑な気分といったものを吟味する機会を持つならば、我々は、その中核に数多くの道徳的闘争を発見する。もちろん、その闘争が粗野なものではないとしても、やはりそうなのである。そしてこうした「気分」といったものが、先に述べた同化過程によって、風景印象の特性を決定するとするならば、道徳的価値のカケラが、風景の印象の上に移し入れられることがある。こうして、その周りに先に述べた「気分」が結晶する。

    このような、道徳的価値のカケラが、風景の印象の上に付与される傾向があるというのは、日常の、普通の風景の中にではなくて、むしろ新奇な、未だ見たことのない風景においてである。こうして、このような風景の作用といったものが、その道徳化によって始めて完結する。このことについては、二つの事例が特に教えられることが多い。海洋と高山がそれである。   [p413]

    この海洋と高山は、人間にとっては新たに発見された風景であって、これが作用を及ぼし始めてから、未だ1世紀も経ていないと言われているが、これは全く正当ではない。なぜなら、少なくともアルプスの景色の遠望と、静かな海のながめは、すでに古代人にも真の風景上の享楽を与えていたからである。ただし、蕩揺する北海、ならびに、周囲の高山連峰から受ける眺めの印象は、少なくとも一般に認められる風景享楽としては、最近のことに過ぎない。

    多くの素朴な人々にとっては、今日においてもなお、このような風景は少しも問題にならない。少なくとも、一般に求めらる風景の享楽としては、やはりそうなのである。少なくともある地域の、静寂な色美しき、あるいは波立ちて輝く水面の本然の魅力、もしくは心地よき森林、草原、丘陵の連なる風景とは比べることが出来ないのである。

    アルプスや北海の風景を発見した者は、ある敏感な特殊な個々の人々であって、そして彼らから次第に周囲に伝搬し、遂に一般に広がるにいたったのである。色やカタチや動きに関する本来の趣というのは、これらの風景[海洋と高山]には、さほど多くないのである。すなわち、光輝くアルプス山、花咲く牧場、海水の緑玉のような竜骨の波、落日の金線などは、すべて、素朴で単純な人々の心情にも作用する、珍しい印象なのである。

    しかしながらその多くは、これら風景に対する、今日の人々の性向を決定する、倫理化的動機に基づいている。   [414]   すなわち、真摯と崇高、荘厳と剛毅[こうき]、威厳と緘黙、悲惨と不安、隠匿的狡計と熱情的激動、―― こうしたことが、風景を通して感じ受けられる印象の特質なのである。

    もしも我々が、様々な形容詞やこれに対応する名詞でもってしても、うまく表現できずに、さらに動詞、たとえば、荒れ狂う、狂乱する、咆哮する、喘鳴する、喉音を発する海洋、吹き荒ぶ、怒号する、引きずる嵐、凝視する、威嚇する、沈黙する岩壁などの用語を多く用いれば、こうした特質の範囲は、ますます拡大する。こうして、すべてこれらの特徴を表す言葉において、本来はなはだ倫理的な諸性質が著しく現れている。

[   ・名詞(めいし)とは、品詞(語の文法的分類)の一つで、典型的には物体・物質・人物・場所など具体的な対象を指示するのに用いられ、時間の経過と関係のない概念を表す語である。
・動詞(英: verb)は、主に動作や状態を表す。
・形容詞は、物事の性質や状態をあらわし、終止形が「?い」で終わる自立語。「高い」「美しい」「忙しい」などが形容詞。  ]


    さて、風景がもつこうした性質を感じ取ろうとするならば、ただ回想による以外にない。こうした性質の本もととしての海洋や山岳の姿は、遠い昔から常に存在して、人間の上に作用してきたのである。そして、その本来のさようは、必ず戦慄、憂怖、恐懼、憂愁、苦悩、驚愕などからなっている。

    反対に、これらが享楽になるためには、その作用の大部分が消滅しなければならない。言い換えれば、人が海洋に対し、波濤に面するに当たり、必ずこれを見なければならない、という状態でこれに相い対するのではなくて、多少無関心な心情でもって、これに対応しなければならないのである。

    すなわち、我々が波濤の沸き起こる海洋、あるいは白雪が覆い尽くす高山に対する場合に、   [p415]   何らか経済上の、あるいは世間的価値を思い、通運回送の、あるいは親戚の身の上などを思い、こうした人々にとっては、一切の風景的感受が、まさに来ようとする危険のために忽然と消え去る。人間が偉人の激情憤激を感じることがあるのは、ただそれが我々にとって直接の関係がない場合だけである。

従って、実際の無関心的な心理状相は、必ずしも愉快とは言えない自然の状態を、風景的に経験することを可能にする。しかしその範囲といったものは、個性により、また、その時の気分によっても異なってくる。

    今日なお、単に適当なものにはなはだしく美的精錬を施して、これを享受し、重んじ、例えば水面のすべての色、丘の風景など、「倫理的」な、あるいは「「哀切」な風景をあまり顧みないところの、風景感受的な人が少なくない。

    しかしながら時代が強く、この倫理的ないし哀切な風景に進みつつあることは疑いがない。すなわち、100年以前の風景に対する一般の叙述と、今日の新聞、娯楽、小説などを比較すると、直ちにこれが理解される。また、旅行の目的もこれと同じ方向を示している。

    これを知ろうと望むならば、我々は文明心理学的要因の全系列を会得しなければならない。しかしここでは今、そのきわめて根本的なものだけを挙げる。文化人というのが、大いな情熱、、大いな心情の気分といったものを、実際に経験する機会から遠ざかり、また、文化人といったものが、法律、風俗、慣習の制限を受けることが、ますます多くなるに従って、   [p416]   このような状態を人工的に体験し、また、これをもって自分の環境を構成し、これを受け入れようとする要望が増えるに違いない。

    人間の社会的存在が、大仕掛けな道徳的闘争のために貧弱になるに従って、我々はますますこれを利用し、自然を道徳化し、倫理化する。「神話」はこれとよく似ているが、実は全く別のことをしている。神話は、人間性を自然の中に織り込むのではなくて、それは全く単純に、自然界における人間性に恐怖し、あるいは希望するのである。神話が、自然の力を人間にもたらす関係は、実践であり、道徳的なのである。

    人間は、自然界を理論的に倫理化して、これを受け入れる。そして、こうした意識は徹頭徹尾変わることがない。今日、暴風雨の怒りに狂喜する者は、誰もこの「激怒」が祈祷や、狡計や、その他この種の方法で和らぐことがないという事、そしてこの激怒が彼を威嚇し始める場合には、工学的経験の一切の規則に従って、これを防止しなければならないという事を、良く知っている。

    我々はまた、風景は実に倫理化されていると言っても、その倫理的出来事は、美的に経験されると言うことが出来る。それはあたかも、人間が英雄豪傑に対するときは、もとより人間はこれを忌み嫌い、また、その彼の使命が我々に対して有害であることを知ってはいるが、それでもなお、彼らの偉大、専断、奸智などを「享楽」するのと、正によく似ている。   [p417]   だからこれは、人々が味方の英雄を愛して、敵の英雄を恐れた、そうした単純な古代とは全く別なのである。もちろん民衆は今でも、こうした古い見解を持ってはいるが・・・。

    従って、近代における風景の倫理化は、心理学的に見て同化の過程といえる。人間は、自分自身の内に絶えず抑圧されていると感じる心情の価値を、風景の中から移し出して見ている。こうした過程が完成するに当たり、これと一致しないものは、ことごとく風景の中から省いてみている。人間は、風景全体を眺めながら、あるいはこれと他の風景を比べて、ますますその特質を顕わにするのである。

    その過程と、これを見る者に対して恐るべき残忍なものとして作用する、幼稚な倫理化との間には、数多くの段階があるというのは言うまでもない。険しい岩壁に周りを囲まれた渓谷において人を襲う圧迫は、そこに生きる者にして、その光景に一定の特性を与え、これを同化的に倫理化して楽しむことを容易にする。これと等しく、海洋の暴風による触動的興奮は、いままで述べた風景上の総合に対して「連結点」を提供する。

    違う者同士が、この種の風景の特色を言い表すために用いる言葉は、すこぶるよく似たように聞こえるけれども、それでもなお、きわめて異なる反動の結果であることがある。これら様々な反動の一つ、すなわち要素的・条件的な反動は、   [p418]   変化することなく存続し、あるいは消滅する。従ってその光景が、この人々に対していわば物凄く、あるいは無関心的に存続する。

    また他の倫理化的反動は、このような「物凄い」という感情から生ずることがある。こうして要素的反動は、この感情から直接に導かれて、倫理化および美的鑑賞という総合的な風景体験過程の中に入る。こうした性質によって、第一の反動を感じる者は、風景を遠ざけ、あるいはそうでないとしても、これを求めるといった事がない。またこれに反して、第二の反動を感じる者にとっては、風景はきわめて価値が多いものとなる。

    輝く水、もしくは光り輝く赤棘[サボテン?]の惹き起こす要素的快適と、大洋ないしアルプスの荒涼とした光景の享受との間に、いまなお見られる風景的総合の機会はおびただしく存在する。理論的倫理化は、風景体験が経てきた最近の宿泊所である。我々は今日ここに宿っている。そしてまた、ここからさらに何が生じ来たるかは、到底予想できない。


  <  私が、倫理化の過程でおこなった詳細な観察は、恐らく特に、美的風景の体験に論及するのを避けようとする、我々の原則に矛盾するように思うかも知れない。倫理的風景体験は、すでに著しく美的事象中に入り込むというのは確かなことである。しかしながら他方において、倫理的風景の体験は、また少なくともその簡単な形態においては、狭義の美的風景の体験と同じく、素朴な心情の者にとっても可能なことである。これ、あたかも絵画の風景を鑑賞するのと異なるところがない。   [p419]
    すなわち、倫理化過程の中には、風景の一切の部分が入り込むことが出来る。にもかかわらず美的抽象は、ただ視覚的領域内に限られる。ここにおいて、見えるものを一つのまとまった美的体験に組み立てる能力、あるいは自分自身の心情状態を、他の何物かの中に移し入れて、そこでこれを楽しむ能力、この二つの能力の内いづれが果たして一層「抽象的」なのか、従って、一層非要素的なのかという事について議論があるべきである。
    私は、この第二のものが、人類にとってはるかに入りやすいと信じる。美的鑑賞に属する「まとまる」ということ、組み立てられるということ自体が、すでに特殊な精神を有するきわめて少数の者だけに可能なことなのである。それ以外の人々の鑑賞能力は、常に個々特殊なものに執着するのが普通である。そうだとすると、このような人々は、倫理化をもって十分に満足する。倫理化において、一つの眺めとなる個々の偶然の性質が、それらを結ぶ主要な連結点となるのである。
    しかしそれにしても、普通の人々が風景を果たして倫理化出来るのだろうか。またそれが出来るとするならば、どの範囲まで倫理化し得るのかが問題である。彼は、風景が彼の心の中に惹き起こすものとして、なにかを言い表す場合、言い換えれば、物凄いものを物凄いものとして言い表す場合において、彼は倫理化を成し得ているのである。
    しかしながら、素朴な人々は、道徳的な心情状態を他の奇異な対象において「鑑賞」する。この場合、こうした心情状態は、必ずしも彼を道徳的に満足させるというものではない。こうした心情状態は、彼をして実際的に密接に交渉する、場所というのがないのである。ここにおいて、我々がいままで述べてきたように、「そうである。もしくはそうではない」という極めて簡単な位置だけが存在することになる。
    我々は常に、新たな実際の場合においてもまた、名著を読む場合においても、   [p420]   民衆は自身に害を加えない犯罪者に対して、ひそかに嘆賞の声を発する。民衆の「刺激渇望」は、本来道徳的に避難される興奮的事件を楽しもうとする傾向の発露に他ならない。我々は民衆、とりわけ心の素朴な者は、扇動家が敵党の大人物などを誹謗する場合には、必ずしもこれに雷同しないということを知らなければならない。
    犯罪の場合においては、民衆は特に彼ら自身があえてしない、あるいは彼ら自身に必要がない場合にも、しばしばこれに相応する刺激を求めて、あえて冒険を望み、また感激する。すなわち、ここに素朴な人々は、「彼自身から拒まれた、しかも彼自身の心の中の潜在的な傾向として存在するその情熱を、他人の上の表面的な現実の中に移し入れて楽しむ」という事が見られる。
    こうした人々の、このような鑑賞は、人間だけのことなのだろうか。あるいは、彼の鑑賞の対象は人類だけでなく、その他の、彼が鑑賞を移し入れる自然の世界においても、これがなされるのかどうかが問題になる。
    このことは、田舎の人々には主要な点で拒否される。なぜなら自然は彼らにとって、あまりに密接な関係を持っているからである。しかしながら、この束ねられた紐が破られるところ、すべてが増進して来る都会の文化においては、自然に対する人々の関係は、緊張する講義に対する場合と同じく進展する。
    前世紀の「自然感情」の異常な成長は、このような都会化的現象に由来するところが少なくない。もちろん人々は、こうした自然感情を過重視しているわけでもなく、また、現代の一切の団体旅行には必ずしも自然感情が、その根本的な動機ではないということに違いはない。流行、遊戯、本能など、まったく実際的な、例えば療病的な考えが、この場合にきわめて大きな役割を果たしている。しかしながら今日、多くの民衆は、民衆のすべてがそうではないとしても、100年以前とは全く別のように風景を経験するというのは、   [p421]   実に疑うことの出来ないことなのである。
    そうだとしたら、なぜ、どのように変化したのか、一層美的になったのか。
    絵画における自然の表現がますます美化されるにつれて、普通の人々は自然からより疎くなる。彼らは自然を侮ることも、いわば自然を戯画扱いにすることもある。風景画は我々の善良な家庭雑誌が今もなお掲載され続けるように、常に倫理的な感受性に相応する。たとえその絵が芸術的にはきわめて貧弱なものであるとしても、偉大、崇高、真摯、荘厳、平和、威厳などの趣を持っている。
    感受的な普通の人々の風景体験は、倫理化の境界において存することが最も少ないということが出来る。この場合、もちろん数多くの非風景的支持点が存在する。すなわち、鐘の音は風景に荘厳な雰囲気を与える。そして素朴な人々は、法廷あるいは彼らが読む物語におけるように、他人から聞くところの心情状態、および品性状態を「美的」には楽しまなくても、それでもなお「素朴」に楽しむ。
    にもかかわらず、醇化された人の「物語」を楽しむのは、まさしく「美的」なのである。要約すると、風景の楽しさの純粋な美化といったものが、一般に行きわたるかどうかは、疑わしいことなのである。これに反して倫理化はますます広がって行く。たとえ往々にして、断片的形相においてであるとしても、それは一般人という方面から見て、現代を他の時代と区別する風景体験の中核なのである。


    4  間接的な風景体験。    人間の目に入る、すなわち網膜中点に模写される風景の断片とならんで、風景の全印象に対して、あらゆる事象においてそうであるように、網膜の側面に落ちてくる感覚刺激もまた、不断に参与する。これを観察者は、実際に、継続的回覧によって、その順次に鋭く見た像を取り入れる。しかし、日すでに落ちて行く黄昏においては、   [p422]   風景の全部は傍系的に、従って漠然として存在するに過ぎない。
    しかし、この風景眺望が印象派の絵画において得た意味は、我々をして風景は、その他においてもまた、一定の感情変化の出発点を与え得るという事を信じさせる。間接的に見るある対象の、光度、色沢、形相、および運動性といったものは変化する。すなわち、明るさと動きが強まるに従って、色沢と形相が萎えていって、その性質の上からも駆逐される。こうしたことが、風景が及ぼす心情への影響というものを、明らかに示している。
    恐らくこれをもっともよく規定し、形相によって規定されるという意味で相い対して、風景構成部分の純感覚的要素の力説であるということが出来る。山、樹木、野原などの代わりに、人間は側面的な、唯一の黄色に輝く管状像、せわしく現れては走り去る影などを見る。無限なもの、威嚇的なもの、又は振動するものなどは、これによってさらに強められる。
    このような出来事は傍系的にではなく、正常な視覚において、知覚された対象においても見られる。従って、我々が見渡すことのない、あるいは注視することのない一切のものにおいてもまた、そうなのである。人間は、無意識の世界でそれを見て感じ聞き取っているのである。ただそれが自分には意識されず、なんのことなのか知らず、知りようもなく、何か得体の知れない未知のものとしてのみ、感じられてくるのである。
    またこうしたことは、風景というのがたいていそうであるように、広く大きな背景についてもまた、そうなのである。但しこれは、人間が日すでに沈む黄昏に遠くを眺め、あるいは、特に注意することなく近いもの、または遠いものに目を留める場合に限る。


      5  風景の性質    風景のカタチは、我々が一つの眺望の中から選び取る立脚地に従って、また、季節、時刻、天候に従って変転する。同一の対象が、   [p423]   すべてこの立脚地に基づいて様々に相い異なって表現される。もちろん、同一の対象は、このような変転を超越してある一定の根本特性を保持しつつ、先にカタチとサイズ、次にその植物が与える着色という根本的
事柄、そして最後には音響と臭い、および触れる感触を保持する。

    これらの出来事の中のわずかな部分については、素朴な人々にも明らかに意識される。例えば丘陵の多いこと、森林の深いこと、冷たいこと、砂が多いことなどが明らかに意識される。またこれと同時に、風景の性質が風景のカタチを超越したものとして感じられずして、むしろただ、具象的なカタチの中に現れ出たものとして感じられるのであるが、これが風景のカタチの最も原始的な作用を定めていることは明らかである。

    しかしながら、他面において風景の性質は、風景全体の過程における紛糾複雑な抽象作用の結果である。また、特に倫理化作用の結果である。そしてこの倫理化作用における「性質」という概念は、ここでその固有の狭い意味を獲得する。すなわち、広く「特性」という意味に用いられる場合と区別される。

    従って風景の性質という用語は、いままで繰り返してきた倫理化的形容詞と最も良く結合する。こうした意味において風景の性質は、複雑な風景の作用において始めて機能する。すなわち風景の性質が、   [P424]   この場合多少に拘わらず主観的に確定され、こうして風景のカタチの種々な変化があるにも拘わらず継続する。特に同一対象の様々な異なる表現を通して、これらすべてを単純に結合する性質が保持される。「真摯な」または「悲哀な」あるいは「親和的な」などの表現がそうである。

    風景の性質に見られる、この要素的なものと、この複雑的なものとの間に、また、外から客観的に与えられたものと、こちらから主観的な意味を付加して見るものとの間には、もちろん数多くの可能な過程があって、その中では必ず両者の混合が起こる。またこれと共に、ある風景の中に、ある品格を主観的に付け加えて見るということは、決して全く任意のものではなくして、いかなる場合にもある一定の客観的特性に少なくとも結び付けられているものである。

    風景の性質がそれ自身で心理的に作用するのかどうか、また、いかにして作用するのかは、風景の性質としての様々な概念とその意味の、混じり合うあり方の問題である。荒涼たる高原から来たる山地住民が、そのもっとも愛すべき平原眺望といったものが、山地の山岳に対する恐怖心を取り除くことが出来ないとすれば、この場合、一定の条件的・要素的な、そして客観的な風景の性質、すなわち山が多いということが、こうした作用に加えて力があるということが明らかである。

    山が多いということが、   [p425]   山地のすべての風景形象の特質となり、また、このことが一切の相違変転における不変的な一般共通の根本性質として存続し、従ってまた、常に具象的印象の中にある一つの特色が、そこに存在するからである。これに反してデリケートな風景鑑賞者にとっては、日光の輝きもまた、高原の風景によって生ずる悲愁を対比によって一層強くするとすれば、この場合悲愁の性質が存在するのは、ただ具象的与件からはるかに隔たった抽象を作り出しているからである。

    たとえ個々の客観的な対象に特殊な状相に結合されているとしても、それでもなお一般的には、本来一定の感情要求から作り出された風景の、観念的理想を作り出しているからである。その理想の背後では、刹那的に存在する感覚的に与えられた風景のカタチが消失する。なぜなら、この現実のカタチが、直接にかの観念的な理想の構成によって覆い隠され、そして終いには同化されてしまうからである。

    そうだとすれば、風景の性質といったものは、一般的に素朴な心情の人々に対しては、ただその風景の性質が常にある、そしてまた不可欠の風景のカタチが持つ、根本的特性を含む場合にのみ存在すると言うことが出来る。こううして、風景の性質が心理的影響を惹き起こす場合は、通常、ただ風景の性質が消失し、これと共に風景のカタチが別のものとなる時だけである。

    これに反して、風景体験がますます複雑になって、   [p426]   遂にある一定の性質の下にイメージされた理想的風景が、あらゆる現実的風景形象よりも有力になるに至れば、風景の性質の役割はますます重要になる。この場合に、現実的風景形象が理想的風景に見えてくるというのは、風景に対する理想的要求に応えたものであって、風景自身が持つ現実的性質に応えたものではない。

    もしも、要素的心理的風景作用が、ある風景形象の個々の構成部分、例えば緑の野、青い空、まぶしい海などに由来するならば、もっとも精妙な風景体験は、本来、その風景性質の抽象的理想の内容にかかわっているのである。この理想に対応して風景のカタチは、特に利用された性質材料の一種を意味している。この場合に理想は、この利用された風景材料を、理想の徴候を実現するために用いる。

    こうして風景の形象[カタチ]と、その性質との区別は、我々がすでに述べた道、すなわち風景体験がその最も原始的な可能状態から進んで、最も精妙な可能状態に至るまでの発展、および複雑化において辿って来た道筋を示す。

    風景のカタチには、心理生活が風景において完了するところの、総合作用内部の関連性が見られる。そして風景の性質は、この総合作用の最高としての、具象的感覚世界から最も遥かな距離を可能にする、抽象の所産なのである。   [p427]




       第2節   顕著な風景のカタチ



    他のものに比べて一層、条件的・要素的に作用する感覚刺激がある。また他のものよりも一層頻繁に、そして気ままに暮らすことを要求する心情状態があるゆえに、ここに多くの人々を特に動かす風景のカタチがある。しかもその中には、すでに述べた総括の道筋において、ことさらに沈潜する風景のカタチがある。

    こうして経験は、風景のカタチが理論的に行きわたるのを証明する。我々は、人間の心理にかなり確実な作用を及ぼす風景のカタチ、あるいは風景のカテゴリーといったものを列挙することが出来る。こうした場合に我々は、その命名からしてすでに風景が、天候と気候の要因たる特色を強めるのを見る。

    1  日光赫灼たる風景。 赤く燃えるように輝く青春や資質などというように、人々が心理的特性を絵画的に表明するに当たり、「赫灼たる」というコトバをしばしば用いることは、日光赫灼たる状態が及ぼす効果といったものが、いかに大きいかを示している。

    こうして多くの人々にとって、少なくとも自己を深く省みるとき、「天候感受性」は、陰鬱な天候と日の照り輝く天候との両反対語の中に尽くされる。日光が心を喜ばすこと、人をして快活に、希望に満ち、   [p428]   活動的に、すなわち人間をして、すべてにおいて高揚させるということは、人々が話す天候の話題の中で必ず聞くところである。

    もちろん現実の世界にあっては、個々の出来事が数多くあって、一部は雲のない青き天空というような日光の原因、一部は風景色に活気があること、および暖かいこと、水面の繚乱、草地の光沢、光と影との対比とその頻繁な交替、また自然界における動物の生き生きとした活躍、郡れる鳥たちの飛翔、衆鳥の鳴き声など、すべてそれらが相合して燃えるように輝く風景を構成する。

    こうした風景が持つ印象は、素朴な心情の者にも及ぶ。この印象はなはだ条件的・要素的なものであって、これを感じない人は非常に珍しい。他方、こうした印象ははなはだ深刻であって、印象そのものが少なくともその瞬間においては、軽い病的抑鬱を駆逐し得るほどである。あるいはまた、気分を爽快にするような周囲の影響によっては、逆らうことの出来ない印象をもたらす。

    このようにして、その印象は、その全力を病めて萎え行く、また日光に当たることの少ない、都会人の上に及ぼす。多くの人々にとって自然はただ「風景」だけである。しかもその風景は、日に照らされている限りにおいてのみである。言い換えれば、ただこの特性の中においてのみ、自然は、感覚と心情に対して知覚することが出来るように作用する。

    他方、もしも自然が日光に照らされないようになれば、   「p429」   その影響はすぐに停止する。児童の心理もまた、すでに早くから、室内に差し込む日光が、色彩や光沢でもって惹き起こす効果に対して、感受的なことが明らかである。従って、日光輝く風景は、一切の風景作用の中で最も普遍的なものを具象化している。



    2  眺望    多くの人々にとって、自然に向かって行う努力の目的は、もしもその自然が何らの眺望をも持たない場合は失敗に終わる。多くの旅行家が登山するのは、ただこれを期待するからである。眺望が豊かであるというのは、彼ら旅行家にとっても、また通りがかりの鑑賞者にとっても、あるいは一層永い滞留者にとっても、風景上の理想を示している。

    この場合、素朴な人々の眺望というのは、それから知覚される風景上の個々の対象の極大量を思い浮かべる。そしてこの鑑賞の一層高いカタチは、単調で広い範囲にわたる平面、平原あるいは海などに対する「自由な眺め」をもって満足する。事実上、すべての包括的な眺望がもたらす作用は、条件的・要素的にして、そして極めて圧倒的である。児童ですら早くからその影響を感じる。

    天性の弁舌さわやかな人々でも、突然偉大な眺望に遭遇すると、茫然として息をのみ黙り込む。日々ものに動じない天性の人も明らかに激動を現わす。   [P430]   想うに、誰もが同じく瞬時に実行しなければならないものとして感じられる運動衝動、例えば我に翼あればと乞い願うおびただしい発露が、こうした作用に大きな役割を演じている。



     3  山と谷    風景に対して日光と眺望とが、もっとも強く、また最も条件的・要素的な作用を及ぼすのは、現実に土地の形状といったものが存在し、これに拠って、そこに光と影の分布、色と輝きの不調和との増加する。たとえば谷の草地、斜崖、牧場などがそうである。ここでは素朴な者でも極めて愛好する様々なカタチの「繚乱」が生じる。

    小さな丘陵の多い風景は、民謡から絵画の対象にいたるまで、あらゆる証拠が示すように、遠い昔から特殊的風景作用およぼす風景、すなわち、これが自然なのである。今日において、中くらいの高さの山が特に評価を得るに至り、こうしたことは、もはや行われなくなった。しかし、中くらいの山がこのように重んじられるようになったのは、一般に高山の「発見」と共に始まったのである。

    山と谷とは、天空と窪地、森林と草地との心地よい交錯として、もっとも端的に人の心を占領する。たとえ多くの人々にとってそれが、海洋ないし高山中の風俗習慣の暗示によって、覆い隠されることがあるとしても、大多数の人々が今日なお、このように感じるというのは確かでない[?]。こうした茫然とした風景に接して起こる感情の表出は、   [p431]   その多くは驚愕となり、往々にして骨折りに終わり、遂に失望するに至ることがある。

    愛すべき丘と谷と小河と林との眺望に接して、恍惚となることは一層真実である。今日においてもなお、病いを治療する者、病に悩む者、虚弱な体質の者に対して、この上なく純粋にしてもっとも直接な歓喜爽快を与えるものは、この風景形象に優るものはない。

    この種の自然が最も聞き得る、また嗅ぎ得る様々な要素が豊にあるのみならず、またそれらが、永く絶えずに繰り返されるという事実を考慮しなければならない。例えば、高山の沈黙ないし大洋の単調な響きがそうである。これは、南方の気候に相応じて変化するギリシャおよびイタリアの風景、すなわち文化人の風景であって、その中にあっては、風景的事象が及ぼす明らかな感覚的および心情的作用が初めて現出してくるのである。



      4  夜。    暗黒の恐怖と憂惧とは、風景的出来事を離れて考えてもなお、また実に、単純な人々にとっては、きわめて多様かつ強烈な物であって、自然界中に夜間停留する際の彼の心情状態を見ると、風景印象といい得る点はきわめて小さな部分に過ぎない。しかしまた、極小部分といっても、それはそこに厳然として存在する。そしてこの部分が、すなわち観念的構想を力強く高揚させる、そうした対象を含む形態[カタチ]の中に存在する。   [p432]

    夜の自然の中で、幽霊が出て来ようとする、そうした場合である。こうした性質は、月明かりの夜から夢月の、あるいは星のみ輝く夜に至るまで、夜という全範囲にわたってそうである。(雲なく星が輝く天は、地域を少し照らすための十分な明るさを与える)

    夜の「もの凄さ」は、これが為に全く風景的に彩られる。もの凄いことに耽溺する事として、素朴な心情にも知れ渡る特殊な作用、すなわち戦慄は、特に浪漫的な気分に満たされた時代に現れる。この時代にあっては、風景的事象は夜において全く大きな力を振るい、こうして風景的ではない恐怖もまた、風景的に改更されるに至る。現代は、夜の風景に対して、このような気分を起こすことは極めて稀である。


      5  黄昏。    「黄昏」、すなわち晩方の薄暗い時が、民謡中に実に大きな役目を演ずるために、どうかすれば人の心情に及ぼす特に深刻な印象は、本来、風景のこの照明形態に由来するとされる。さて、こうした印象は決して拒否すべきことではない。この印象は、日中の光と暖かさの残りから発したものである。従って、夏季において特に有効な要素から発するものである。

    しかしながら、これ以上に、さらに強く黄昏時の効果を規定するものは、非風景的諸感覚である。それはまずもって、昼の労働がすでに終わり、あるいは中止され、   [p433]   そうしてむしろ暇で遊びのような生活、愛欲刺激的な事柄の起こると共に始まる。

    晩は、人が為し得ることから見て、まさに昼と夜の中間である。晩は、労働の夜を結び終わって平和な夜となる。しかもこれと同時に晩は、夜の暗黒をもたらし、従ってもの凄いものを招き入れる。晩とと共に、あらゆる光明を嫌忌する者の乱雑なふるまいが始まる。晩がもたらすこの両印象は、我々が人々の情緒においてしばしば発見するところである。

    黄昏は無数の社会的装置の演舞場である。しかしながら黄昏が生むものは同時に、迷信的怪異の対象である。昼と夜の間の、晩の位置に対して起こす、人間精神のこれら矛盾する二つの反動作用は、高い文化に進んだ遍歴者もまた、親しく体験するところである。そして、黄昏に入る晩の景色が彼に対して、心を覚ます鮮やかな冷気をもたらすと同時に、消え失せようとする光の軽い圧迫と、悲愁とをもたらすときにおいて、特にそうである。

    個々の人々の心理的構成が異なるにつれて、黄昏のある性質、あるいは他の性質が晩の景色の作用を支配する。この際に我々が忘れてはならないことは、風景的効果そのものが、人格の構成上の特質によって既に規定されているということである。

私は先に、多くの人々の昼間の行いが、おおむね晩に初めてその頂点に達するということを見てきた。   [p434]   こうした性質は、晩の景色が彼にもたらす高揚した気分において、あらゆる現実的な出来事に対するように、また風景的な出来事に対しても特に感受的である。すなわち、このような性質の人々は、彼らの気分といったものを、晩の風景の中に移し入れて見ている。

    しかし、ここで興味があるのは、このような性質の者にとってもまた、特に、黄昏の作用は不愉快なもの、特に気味の悪いもの、脅迫的なものだということである。我々は恐らく誰もがこの種の人々を知っている。この種の人々の一日の活動能力の頂点は、実に晩方にあって、しかも彼らがこの頂点を体験出来るのは、ただ自然の晩のカタチ[形象]、すなわち黄昏行く風景の終息するときである。

    こうしてその黄昏の風景は、昼の光を全く遮ることによって、彼らは人工的照明、そしてその下での人間同士の社交に逃げ隠れる。彼らは黄昏に平然としていられない。特に病的で哀傷的な、神経質な人にあっては、黄昏の圧迫的効果は逆らうことの出来ないものである。こうして彼らの、気分の悪い昼の時間は、年ごとに黄昏と相伴う。すなわち、こうした気分の悪い時間は、季節がもたらす晩の推移と共に変動する。


[    昼と夜の間が晩である。明と暗の間、光と闇の間。薄明かりの世界、または人工の照明が作り出した仮空の世界。これは眠りとめざめの間、無意識と意識の間、潜在と顕在の間、要するにウトウトした、曖昧で漠然とした捉えどころのない「夢の世界」である。人間の観念が作りだした仮空の世界である。つまり半ば夢の世界なのである。    ]


      6  晩秋。   秋に固有な風景については、すでに例として述べた。しかし、その風景は晩秋あるいは初冬の風景とは異なるのに違いない。   [p435]   この晩秋あるいは初冬の風景では、自然が落葉し始め、嵐が吹き、雨やミゾレが降ることで冬が近づくのを知る。これらの自然形象は、悲しい気分をもたらす要件であり、自然の「死」の格好の象徴となっている。

    もともと複雑な気分を持っていて、冬に抑鬱を感じる人々は、このような象徴に対して敏感に反応する。ゲーテが10月になれば気分を損なうというのは、そのためであって、また、牧師のハンスヤコブが晩秋のボーデン湖畔の散策の際には、常に涙と共に悲哀を感じると言うのも、また、この萎えて消えゆく自然の反射であると言える。風景に感じやすい人々をすべて消沈させる上で、うっとうしい灰色の晩秋の形象が、預かって力があるのは確かである。

    しかしながら、この効果は、涙と共に深刻な不気分に高揚し、また終日続いた後には、終いにはその作用のために憂欝な性情に移って行く。こうして我々は、この場合、日光が照り輝く晩秋の真昼も、これ以外の作用を及ぼすものではないという事を知る。そしてこれを経験した者は、太陽と自然の生物の死滅との対比は、人間にとって憂欝に作用すると言う。



      7  格外の風景。    慣熟に関する一般的心理学的法則によれば、   [p436]   最も強い作用は、常に新奇な風景印象からもたらされる。すべて「外国から来た」風景によってひき起こされ、また、内国から出てきた新風景がその色、形、音、香りなどによってますます多様に展開されるにつれて、いよいよ活発になる大きな効果は、実にこの新奇な風景印象から生み出されたものである。

    一般に、人々にとっての風景は存在している。内国の自然な眺望は、多少遠い外国にのみ普通の事として、暗い気分の中で暮らしている。人々が良く知るように、熱帯の太古以来の森林、熱帯の黄昏、南方の星輝く天空などの作用は、旅行することの少ない民族の間においては、全く威勢盛んな空像である。

    気候上の地帯の狭い範囲においては、季節は風景のカタチの大なる変化を人間にもたらす。この季節がもたらす、風景の変化に対する印象能力は、人間の風景体験のもっとも広がったカタチである。「美しい春日、または秋日」という特性表現の中には、天候の確立と共に、生活に及ぼす間接の作用、飛翔の可能性、熱の終了[?]などと相並んで、常に一片の風景の楽しみがある。この楽しみは、自然眺望が経験する変化の突然なことと、強烈であるということと共に成長する。

    従って夏が、あまり特色のない季節だとすれば、――もちろん、「雷雨の後の自然」は、夏において素朴な風景感受に対して、比較的大きな役目を演じている――   [p437]   冬は「一夜を隔てて」実にこれと反対の現象を呈することがある。予期しない冬景色、あるいは霜景色は、子供ですら実に歓喜を惹き起こす事が明らかである。

    人が複雑になり敏感になるに従って、ますますわずかな違いが、彼に対して風景の形象を新奇に見えさせ、そしてそれがまた、彼に対して作用する。このような場合、ささいな変化が時として粗雑な推移よりも大きな役割を演じる。この場合、我々自身が変化のきわめて少ない風景のカタチを、同化的に新たに形成する。この方法については、すでに述べた通りである。

    非日常の風景が及ぼす心理作用については、懐郷病[ホームシック]という心理状態においてもっとも基本的に表される。これは全く素朴な、複雑でない性質の人々にのみ起こるもので、その意味でわれわれにとっては、一層価値のある事柄である。また、もちろん、社会的諸要素が懐郷病に大いに関係があることはたしかである。

    言語、風習、交易規準、例えば見慣れない貨幣その他の様々な事柄は、懐郷病状態をひきおこす重要な要素である。しかしながら誰もが、風土心理上の事象が、ここに成り立つということを全く忘れている。この風土心理的事象は、多少とも気候の作用とされ、あるいは、往々不慣れな天候が原因とされる。   [p438]   ――例えば、風多く、にわか雨が多いことなども、これに伴う――しかし主要な点はあくまで風景上の事柄なのである。

    一般に、船員が懐郷病にかかる場合に、社会心理的要素(水は言うまでもなく、特別に分離した形の存在を為している[?])のみが、唯一の原因であるかどうかは別として、風景的に着色された懐郷病の犠牲者は、山地住民、特にアルプスの住民である。

    古くから言われて来たことであるが、アルプスの民を多く有する国家は、その軍隊の補充に際して、この経験を顧慮する。この場合、社会的隔離がいかに大きな影響を与えているかを確実に語るものとして、たいてい実に幾世代にわたって、結婚の区域を唯一の渓谷内に制限することがある。

    しかし山岳が見えないというのは、常に心を痛ませるもので、意識的にも無意識的にも悩ましく感じられる。これは未知の山地に入り込むことが、住民の上にも、宗派の上にも、社会的にも、非常に親しい関係にある平原に入り込むことよりも、はるかに容易であるという事実からただちに了解される。



      第3節   精神的発達における風景



    [p439]    素朴な風景体験と複雑な風景体験との区別、風景感受性の歴史的完成、並びに風景の総合について概略述べてきたことは、すべて感覚的に知覚された自然環境に対して、一定の心情状態をもって反応する能力が、人類の心理生活の発達に密接な関係があることを示している。

    それは、個人の心理生活の発達においても、社会のそれにおいても、また風景感受性そのものの中に含まれる心理的性質が、ある一定の発展段階において実現されるその方向、すなわち、心理が一定の状相において、風景印象中に自発的に開発される方向においてなのか、あるいは風景自身が、心理状相の発達に影響を及ぼし、これを規定する方向においてなのか、というのは問われるところではない。


    1   年齢の風景感受性    繰り返して述べてきたように、個々の風景の特性に対して、すでに児童が――時として極めて幼い児童が、心情運動をもって反応することがある。多くの人々にとっては、風景経験は本来決してこの児童のとき以上には進まないものである。ときには却って後退する事さえある。すなわち、生存の必要から生じてきた実際的感動が、ある種の風景形象に対して大きな歓喜をもたらす。

    しかし、風景感受性の高揚が明瞭になるところでは、   [p440]   その頂上は決して生活の高度[?]と全然一致するものではない。その頂上は青春期に存することがしばしばある。実に多くの人々にとって青春期は、風景感受を有する唯一の時期である。

    青春期の風景体験は、彼のこの時期の一般的な特徴を示す。妄想的であること、贅沢なこと、明敏でないこと、粗野なことなどがそれである。成熟期に入ると同時に一切が失われ、自分はもはや自然に対して、このように喜ぶことが出来ないという意識が強く迫ってくることが稀ではない。

    この場合、このような意識は、普通少なくとも人間が青年時代と壮年時代との間の境界において経験する、深い生活危機の一部分となる。30歳前後にあらゆる風景感受性に特有な事象が全く消失して、もはや再び現れないということがしばしばある。しかも本人にとっての「自然」は、きれいな空気と閑静な点から尋ね求められる。

    しかしながら、風景的体験能力を維持する人にとっては、自然は、我々が先に風景総合の場合に述べた、かの多種多様な継続の一切をさらに続いて体験する。知識的に、美的に、芸術の理論と実践の上で、こうした経験が大きな役割を演じる。風景趣味は全く、そして繰り返し変移する。こうした結果、成熟した人にとっては、成熟し始めた人が熱求するものが、全く無関心なものとなる。それでも偶然の出来事、たとえば旅行のようなことが、ときおりこうした事態に一つの転期をもたらす。   [p441]

    こうした発達は、夫人において少し別様の趣きを呈する。夫人においては、たとえ意識されていなくても、または半ば意識されていても、結婚および母たることに向かっての準備が、成熟の時期を支配することが専らであって、これに比べれば一切のたの事柄は、単にその翻訳、もしくはその代用に過ぎない。

    特にこのことが明らかに現れるのは、老嬢においてである。われわれは老嬢において、とかく風景妄想が著しく高進するのを見る。そしてその妄想には、彼らの隠れ性格が極めて明瞭に印銘される。

    また、婦女子にあっては、概して「月経」という生活習慣によって破られない限り、ほとんど誰もが成熟した男子よりも一層活発に自然を求め、また、風景感受性を有する。そして性欲満足を得た婦女が、一般に大いに「風景趣味」を持つ。しかしまた、この風景感受性の一層精微な継続発展は、再び少なくなるようである。このことは、婦女がその全精神的本質において、この方面においても素朴単純にして、複雑でないということである。いわば子供らしいということである。

    しかしまた、特に情意せいかつにおいては男子よりも主観的である。従って、感情を外的事物の中に客観化すること、およびこうして、すべてを、上に述べてきた風景生活の総合的過程の中に、   [p442]   自己を移入するということが比較的少ない。


    2  時代の風景感受性。    民族その他の社会的教養――文化をもって、これを民族の少年時代および老年時代に相応する個体と比較することは、数多くの点で研究すべき価値の多いことであるが、この比較は、人類の心理生活が文化の発達においても、次第にその単純性を失い、複雑になるということを示している。一般の人々は心理的にますます発達し、特殊に発達した、敏感で精微な精神を持つ者は、それ以上に進む。

    そしてこのことは、精神生活の書方面においても、また、感覚的に知られる自然界に対する関係においても見い出される。しかし、風景感情そのものが、最近1世紀半の発達に過ぎないというのは、行き過ぎた論である。

    もちろん、この1世紀半において、風景生活は過去の数千年間よりも一層複雑になり、かつ、精妙となった。しかしながら例えば、海洋は、この頃にようやく風景として「発見」されたものではない――ローマの富豪がその別荘を海洋の眺望に適うように建てたのは、何らいわれのないことではない――また我々は、いにしえの風景感受性をあまりに軽視して、風景を絵画や詩文で表現する芸術的能力でもって、一般の風景感受性の尺度とすべきではない。   [p443]

    文学上、彫刻上、また、道徳心理学上の材料、例えば旅行や静座の様式その他に数多くの研究がなされたにも拘わらず、我々が、人類と府警との関係の全体的発達について知るところは、なお極めて少なく、従って個々の詳細に至ってはほとんど確信をもって答えることができない。しかしただ一般的に言えることは、民衆の風景感受性というのは、その発達の経過を通観しても、それが複雑性、感受性などに関する限りにおいては、ほとんどなんら本質的変化が見られないということであるp。

    今日もなお昔のように、民衆にとって自然界の影響は、眺望の、あるいは喜ぶ、あるいは恐れる、あるいは憂える、あるいは楽しむといった個々の出来事に由来する。この際に範囲が広がるのは、ただ新しい風景領域が知られたる場合だけである。すなわち、今日下層の人々といっても、近代の交通機関の発達によって、また「時代の特徴」によって、あるいは義務のため、または保養のため、あえて想い魅せられた地方、例えば高山、海洋などに到ることが出来る。

    しかしながら、こうしたことを生み出す、いわゆる「特徴」といったものは、それが楽しみの要求に適うものである以上、または、適うものでなければならない以上、それは「教養ある者」の作業である。こういうわけで、根本的に変化したと言えるのは、この教化ある者の風景感受性なのである。私が風景総合の章で述べたような、発展可能性の標準に従って、この風景感受性は発達し、かつ複雑になる。   [p444]

    さて、教化ある人の数が大いに増加したのみならず、さらに増加して行くために、多くの人々が持つ風景感受性は、すこぶる純化してゆく。もちろん人によっては、少しも内的発展をすることなく、時代の特徴といったものが彼をして、ただ外的にのみ、表面上だけでそう見せているだけで、そうして、彼をして近代的風景感受性を表現するのに必要な言辞を、ただ単に流行に倣って用いているということもある。

    しかも、どれだけの人々がそうなのかは推測し難い。我々はこの数を少なく見積もるべきでない。しかしその反対に、次の事実をも忘れてはならない。すなわち、流行によってある出来事を好むようになると、多くの人は内的にもそのような変化をこうむり、こうして、普段の日常において眠ったままであった感受性が、彼の中で目覚めてくるのである。芸術の歴史はこれに対して最も明瞭な実証を与えてくれる。しかしまた、自然に対する感じ方の領域においてもまた、これに相応する数多くの事象が存在するのは当然である。

    しかしこれを、古代の高度に発達したいかなる文明に比べても、現代の文化世界における精神上の指導者が、風景に対して持つ、広く洗練された、深められた感受性が、少しの遜色もなく一頭地を抽んでていることは確かである。こうした心理上の特徴が、民俗、文明の程度、階級、地位、職業などによっていかに影響させられ、いかに彩られるかは、研究資料が極めて乏しく、未だ叙述の域に至っていない。




    [  20/087/02 p444    <まねる>。  流行によってマネる、パクるといっても、現実にそのように自分がナリスマシすることによって、自分の心の中も影響を受け、また心もそれへと成り始める。知らず知らずのうちに自分の内的世界といったものが、そのようになってゆくのである。慣れや習慣・習性といったものがそれである。
  つまり、自分というのが、それへと移り行き、入り込んでゆくのである。自分もそうなのだと思えてくるのである。のみならず、自分はそうでなければならず、そうであるはずだと信じ始めるし、また確信もするのである。
  感情や意志といったものが、それへと移入してゆくのである。いわば密輸入である。自分でも気づかず知らないままで、自分がそれへと移ってゆくのである。取り憑かれると言ってもよい。これが「慣れ」なのである。
  それがホントの自分であり、自分に違いないと思えてもくるし、またそうした自分を信じるし、信じなければならないのである。そうしないことには、自分で自分を否定してしまうことになるからである。
  しかしまた、そうやって信じるということが、自分をして社会の一員として、周りの人々とのつながりや、キズナといったものを確かめることが出来るし、そしてまた、社会の中での自分というものを見つけることが出来るのである。
  そうだとすると、従ってまた、このような性格や人格といったものが、その中身がカラッポであろうとなかろうと、あるいは好きか嫌いか、またそれが悪いか正しいかなどということは、ほとんどどうでもよいことなのである。大事なことは、これ以外にないというのが、自分にとっての現実だからである。
  これを信じる以外にないというのが、自分にとっての現実だからである。そしてまた、これがシツケであり、道徳であり、シキタリ、オキテ、あるいはさらに進んで法律や信仰、宗教を作り出している。言い換えれば、これが自分たちが何よりも信じるもの、また、信じなければならないものとなっている。

  <カラッポ>。  しかし実際、そうしたことはたいてい中身はカラッポである。そんなことは、自分とはもともと関係のないことなのである。自分にとってみればそんなことは、どうでもよいことなのである。それどころか、カラッポの方が都合がよいのである。自分にとっても、また周りの人々にとってもそうなのである。
  そうやって、それが日常化・常態化していて、馴れて習性と化していて、自分が忘れられ、失われている。また、それに気づくことも意識することもない。実に便利で都合が良くできている。そしてこれは、自分自身にとっても、また社会にとっても必要とされ、求められていることでもある。
  どんな社会、どんな文明でも、見てはならないもの、知ってはならないことがあって、またそうしてこそ社会が成り立つのである。このような、暗黙の了解、タブーやオキテなしには、社会や文明は成り立ち得ないのである。それは社会の一員としての誰もが従わなければならない、強制力なのである。

  <共感>。  ここからまた、全体主義・共産主義への共感がわいてくる。自分のことを、何もかも他人が決めてくれるからである。自分のことを、自分で生きて行かなくても済むからである。自分はただ周りに合わせてナリスマスだけで、何も鴨がうまく生きて行けるからである。何も考えずに、知ることも、悩むこともせずに済むからである。実際、確かにそうした意味では、シアワセなのである。
  しかしまた実際、そうした生き方が向いている人々が、実は、世の中の多数派なのである。人間は、誰も苦労したくないのである。ラクして楽しい思いがしたいのである。
  しかし、そのためにはやはり、そうでない者を何としても探し出し、排除し続けなければならない。自分がそうであるためには、そうでない者がどうしても必要なのである。そして、こうした社会では、差別と排除、そして粛清がどうしても必要な、不可欠の条件とならざるを得ない。  

  <怒り>。  しかしまた、そうした生き方しか知らず、そうした生き方しかできない人も、珍しくない。そうした人間は、いままで述べてきたことを聞くと、激しく憤り怒り出す。しかし、こうした人々の生き方・感じ方・考え方というのは、日本という社会がこれまでずっと、ずっと目指してきた理想的な人間モデルだったのである。
  誰からも慕われ、上司や先生からは可愛いがられ、部下や後輩からは尊敬される。そうした人間関係を理想としてきたのである。つまり、コネと談合の世界である。学校、会社、地域コミュニティ、そして政府とマスコミがそうであり続けたのである。彼らが、そして誰もが、それを望み、求め、目指し続けてきたものだったのである。そして、それが通用しなくなった。つまり、裏切られたのである。怒って当然なのである。そうした自分というのが、ないがしろにされ、無視され、陥れられたのである。自分が信じるもの、自分の拠り所となっているもんが破壊されたのである。
  自分自身の存在理由、タマシイといったものを辱められたのである。だから怒って当然なのである。しかし、だれが悪いのでもない、悪いのは、自分がただそうだからなのである。取返しができず、つぶしもできず、もはやどうにもならず、どうしようもないから余計に腹が立つのである。といっても、何も珍しいことではない。時代の転換期というのは、いつでも、どこでもそうなのである。  ]



   [p445]
      3  風景が民族の気風と運命に及ぼす影響。    私が気候によって、民俗の気風が改造されることを述べた際に、私は風景的要素を説明しなかったが、それを今ここで述べようとする。風景が民族の気風に及ぼす影響もまた、気候の影響と同じように、民俗の特色を形成する極めて複雑な原因に基づくのであって、これを区別するにあたっては、多くの障害と困難が存在するのを覚える。

    加えるに次のようなことがある。すなわち、民衆の風景体験は、単にその折々の機会に遭遇し成立する、偶然なものであって、極めて単調なことが多い。そしていかなる場合にも、ある一定の要素的効果、すなわち色彩や光沢、あるいは形状のようなものに執着する。特に、日々いつも生計のために、自然界に苦役する田舎の民衆にとっては、この自然を風景として、自分の脳裏に採り入れることは、ほとんど不可能である。

    風景のカタチについては、さらに、民族の気風の中にある特徴の形成にあたって、想定しなければならない統一的作用が、はなはだ制限された度合いにおいてのみ予想し得る。   [p446]   少なくとも、季節と天候に従って常に変転する範囲において、これを予期し得る。

    風景の性質は一つの抽象であって、概念的に高度に進んだ精神においてのみ、意味を持つことが出来る。しかしながら、直接なことと瞬間的な出来事だけに充たされた単純な人々にとっては、ほとんど体験としては存在し得ないものなのである。こうした事情から、民族の特色を風景から導きだそうとする場合、極めて用意周到にならざるを得ない。これは、我々が気候について、これと同じ企てを為した場合と同じである。

    心理状態とそれが表現される様式、気質、並びにこれと密接に関連する周りの人々に対する、実際の態度と性格などは、日々の切迫した大いな体験によって圧せられ、(生得的傾向をとりあえず無視しても)同時にまた、これによって形成されるために、これに比べると、風景的要因の作用はほとんどないに等しいと言える。また、こうした理論的考察は、実際の証明によって十分に保持される。


<  アングロサクソン人は全体的に極めて単調な、霧に覆われることが多い、灰色に覆われた、日光が照らすことが稀な風景のたもとに住みながら、しかも文化民族中で最も快活な者たちである。
  同じアルプスで住む者でも、アレマンニュ人とバユファール人、つまり、スイス人とバイエル・オーストリア人との気質と性格がいかに著しく違うか。   [p447]   そうして、風景の性質が最も単純にして、最も一般的な者を評価し規定しようとする意図が、いかに失敗に終わるか。
  山の風景は、その他の点においてどのような差異があるにもせよ、カタチと光との著しい複雑多様をもってして、常に人々を快活に、爽快に、動的にする。これには気候的要因の他に、特に運動的要求が深く関係している。これは、山の中の生活といったものが、そこに住む者にとって及ぼすところのものであるが、それは古くからそこで住む者の性格に影響されたものであると同時に、そこに住む者が影響され続けてきたものの事でもある。
  そうしたことが持つ運動的習慣は、一つの明白な要求へと導くに至る。それは今日はなはだ明らかになっていて、そしてまた、もっとも影響が多い原因たることを認められようとしている。しかしながら、感覚的に「知られた」ものとして、特に「見える」ものとして、風景は、そにお影響を単に心理生活の感情方面と、身体的活動傾向に及ぼすということが、天候・気候と同じであるのみならず、またそれは直接に人間の表象生活に相応するものである。
  そしてこれが、すなわち、風景と民族の気風との関係が提起されるところなのである。色彩とカタチの上で多様な風景は、そこに住む人々の観念に向かっておびただしい交渉と関心の対象を提供する。これが単調な風景に優ると考えるのは、理論上からもすでにほぼ支持されている。
  こうして人間が、そうした機会の利用が、あるいは明快な、あるいは陰鬱な色を帯びることがあるというのを見ても、しかもなお、我々がこれを概観するとき、民間の習俗、信仰、および芸術において、区画錯綜する風景の住民、すなわち高原の民族は、ほとんどまったく臆病な平原の住民と比べて、   [p448]   著しく豊富な観念[構想]生活の所有者であるということは、ほとんど否定の出来ない事実である。
  民族の気風の生成に関する、風景の本質的な独自の意味は、実にここに存在する。民族の気風は、ある民族一般の心理的風格を意味する。その中には感覚的、観念的、悟性的諸性質をも含む。    >


    ここでもしも我々が、一民族の気質と性格に及ぼす風景の影響を軽視し、その感覚活動と観念生活に及ぼす影響を重視しないならば、これと相関連して、民族の運命に及ぼす風景効果の関係もまた、同じような制限を受ける。

    もちろん、いかなる心理的特性も、たとえ間接的であっても何らかの瞬間において、一度は、一社会の運命に対する重大事件とならないものはない。このことはまた、多かれ少なかれ、一民族中に作用する観念生活にも適用できる。しかし、この疑惑を追求しようとするには、その歴史的研究がすでに極めて困難なために、我々がここで取り扱える限りではない。

    しかしながら、一民族の生活における運命の転向が、直接の風景から由来したものとは思われない。なぜなら、このような転向は、決してその観念的産出としての風習、信仰、芸術に由来するものではなくて、むしろ、頑固で臆病な生存のための要請という、避けようのない現実から求められて来たものだからである。こうした転向は、また、自然環境の結果たることもある。しかし、これはその自然環境という意味が、   [p449]   狭義の観照的な「風景」ではなくて、それが植物や土地などに人間が直接に関係する、そうした現実的な意味でそうなのである。

    いかなる移住あるいは植民も、その居住地を定めるにあたって、その地の風景的諸特性、その色に対する好みの傾向、そのカタチに対する愉快などの体験が、これに預かる。「こここそ良ければ、ここにこそ屋を立てるべき地であれ」の叫びは、このような特徴を持つ地点に住居を構えるにあたり、現実的な目的にかなうものであって、ほぼ本能的に、あるいは熟慮を経て認められた為に発せられた声である。

  強い風景体験を持つ多くの民族が、移動をするに当たり、その偉大な指導者たちは、いまだかつてこれが為に彼らの歴史的判断を左右されたことがない。一将軍が、眺望絶景なる光景に惑わされて、たとえ軍略上からその破壊を求められて、なおかつそれを愛し惜しみ保護しようと決心するのは、実に彼の歴史的偉大さを損する弱点というべきである。このようなことが、たとえ一度でも起こったとしても、それでもなお現実は、さしたる意味を持つということがない。何も変わるということがない。

    こうしてラッツェルが、土地の形相が歴史的運動に及ぼす作用について列挙した一切の事例について、我々は、それが風景の作用として分類すべきものは一つもない。単に、比喩を事とした場合を除いては、こうした作用を行わせるのは、   [p450]   その場所が持つ様々な性質に対する実際的な要望だけであって、それが示す感覚的に知られたカタチに対する良し悪し、ないしその心理的諸結果がこれを左右するといったことは、あり得ないのである。

    われわれが実際に、民族の運命の概念を内部的に把握し、またその概念の中で精神的に生み出されたものも算入するとき、すなわちこれが、一社会が人類の文化に寄与する根拠となっている。この意味において、風景の影響は本質的にその意味を増大する。

    この場合に我々は、いわゆる「自然」または「気候」ないし「住む場所」による一民族の決定において、多くの場合、風景の特性が狭義の気候の特性よりも、一層強い意味を持つと言える。

    民間風習、民間信仰、民間趣味にとっては、個々の場合に著しい違いがあるとしても、それでもなお全体として見ると、風景の作用が風土心理学上もっとも重要な勢力にして、しかも、人種や民族の能力および社会心理学的要因と並んで注目すべき、また、およそこれに匹敵する決定者なのである。



      余論   文化風景


    人がもしも密閉した室内の空気状態を称して人工的気候というならば、   [p451]   諸々の人家、市街、都市、村落のような、人間が作り出した言わば工芸的環境は、総じてこれを「人工的風景」と称すべきである。しかしながら、我々の感情がこれを拒もうとするのは正当である。実に、森林と都市との間には、数多くの過渡状態があって、その中では、人間に対して風景として現れるのが多い。

    しかし、これらが人間に対して、このように現れる理由は、それらが人間に対して作用するカタチの全体が、自然のままの地面とそれを覆う植物とが依然として優勢なものがあるからである。もしもこれらが、人工によって構成されたものに圧倒されるか、またそれが我々に現れる場合、風景とは異なる趣を呈するに至る。こうして人間はこれを、あるいは村落、あるいは都市などと言う。

    この場合の基準になるのは、土地の形成である。すなわち地理的要素である。もしもこの土地の形成が人間に与える印象中、自然に与えられたものが主な部分を占めるとするならば、人家も村落も、また都会でさえも風景的作用を生み出す。たとえば高山から、村落と街とが相い交わる平原の眺望がそうである。
    
    植物の繁茂もまた、時おり人工に左右される。すなわち「文化」たることがある。我々がこれについて塾考すると、われわれの故郷の風景は、おおむねこのようになる。   [p452]   しかし牧場のようなものは、うまく地面の自然を覆いぼんやりと見えるために、たとえ人間が、それが牧場であることを良く知っていても、またその農耕のための諸施設も、あえて我々が受ける風景としての印象を減損することがない。

    田畑に至っては、広く開かれた耕作面は、われわれにとって数多くの小さなまっすぐに分割された、直角な線条としてよりも、むしろ「風景」として作用する。葡萄畑の山は早春、その葉がすべて落ち、険しくして、見る人をしてその構えを透かし見せることによって、非風景的に作用する。しかし、それが葉に覆われ自然なふうになるに従って、特徴ある風景として作用する。

    まっすぐに植樹された森林、まっすぐに注ぐ河の流れ、長い直線の道は、たちまちにして風景としての性格を失う。大気によってひどく浸食された古い建築は、新しい建築よりも、ワラに覆われた出来れば苔むした、しかも砂利をも敷ける農家はレンガの家よりも、祖先を祀る祠堂は旅館よりも、水車小屋は工場よりも、人家がまばらに散在する村落は、密集した村落よりも、地面に密にまとわり土地の支配を受けることが多い山地の住家は、平野の住み家よりも、穀物畑はカブラ畑やジャガイモ畑よりも、さらに一層風景に適応する。

    それが花畑であれば、その花の種類によって、   [p453]   風景に作用する仕方はセ千差万別である。ドイツが有する風景は、おおむね「文化風景」である。そしてそれがなお、一般に風景として作用するかどうかは、そこに残存する自然類似性の多い少ないによって決定される。

    このことは、庭園および公園、すなわち自然と文化の中間に位置する、人工の造作物において最も顕著に示される。民衆が注意するところは庭園の二つの形式に見られる。一つは農園であって、これは人心を喜ばせる一つ一つの印象、とりわけ特に雑色繚乱たる色の印象を惹き起こす。もう一つは、風景でありながら、ことさら自然を模倣したもの、しかもそれが自然に近ければ近いほど、ますます人の心を引き着ける。しかしながら、美的原則に従う「造営」庭園は、多くの人々には一般に理解されず、たいていなおざりにされる。

    これらの庭園は、これを理想的庭園形式として見る人にとってもまた、もはや「風景」ではない。またこの庭園の製作者の意志も、これを風景として作り出そうとしたのではない。なぜなら、こうした庭園は、自然の諸要素、例えば土地、水、植物を出来る限り技巧的に、わざと似せて組み合わせようとしているからである。

    にもかかわらず、散在する丘陵、起伏する樹林や草むらが点在する、小川の貫いて流れる村落、これらは意識することなく人間が自然に加えた人工的要素なのであって、なお依然として一つの風景たる趣きを持つ。   [p454]

    文化風景がもたらす心理作用は、その風景が純粋であればあるほど、ますます強く我々が考察したあらゆる法則に付き従う。その中に観念[構成]的要素が入ることが多いほど、ますます強烈に、趣味の人には美的感銘を、通俗の人には社会心理学的感銘を与える。とりわけ後者は、特に力説する必要がある。

    たとえばルソー時代の自然に対するあこがれは、おおよそこうした部類に属する。これは、風景に対するぼんやりした憧れというより、むしろ田舎風に対する憧れである。しかしまた、現代の天然に対する態度の中にも、これと同様の性質を帯びるものが数多くある。

    こうして「根本的地方主義」も、多くの人々の心情を動かしつつあるということも、否定できない事実である。我々はまさに文化風景に飽きている。そして、人間が未だ触れることのない自然にして、比較的容易にみることの出来る眺望は、ただ不毛の高山に限られるほどである。

     こうして多くの人々にとっての、純粋に社会心理学的に規定されるところのもの、すなわち「時代の特徴」および流行の出来事などは、少数の人から見れば、個体生存のための社会心理学的装いから脱出して、風土心理的決定作用の諸要因から一切の文化的要因を排除して、もっとも厳密な意味での「自然」に帰り行くことと思えてくるのである。   [p455]



        概観    風土心理学の研究方法。



    風土的心理現象の様々部分を透かし、通りこして、我々がたどって来た道筋は、まことに長いものであった。しかしこれを、そこから収集された獲物に比べれば、なおかつ足らないものを覚える。

    もとよりこうした出来事の中には、単なる推測や連想、および迷信が存在するのみならず、あるいは過半近くがこのようなものに蓋われ、あるいはまた、わずかな部分がこのようなものと併存しつつ、その間に、数多くの事実が存在するということは、すでに示されているところである。たとえ、その事実が粗雑な経験の事実であるにしても、はたまた、すでに科学的方法によって釈明された事実であっても、やはりそうなのである。それはすでに示されたところなのである。

    しかしながら、このような事実に対して組織的な生理が著しく欠如し、終始単なる付加に過ぎないということもあり、あわただしい予想に過ぎないものもあり、漠然とした着手に過ぎないものもあり、あるいは、これらの付加、予想、着手に過ぎないものと、あいまとわりついて、さらに数多くの単なる思弁と想像[構想]が作用しているというは、明らかな事実である。

    ここで、我々がさらに先に進もうとするならば、事実の収集が実に根本的条件となっている。我々はこれを完結して、さらにその後に、この良し悪しを研究すべきである。   [p456]


      1  風景の影響。    その根拠をより確実にするためには、ただ感情および一般に心情の運動、特に我々の心理生活における、「美的要素過程」を研究する方法の進歩を待って、始めて良くすることが出来る。そのためには、主として二つの方法がある。

    その一つが表出法。これは心情の変化というのが、一定の企てをたどって進むとき、これによって身体の内部作用の中で、影響を及ぼす様々な動揺の生理学的・機械的測定である。おそらく我々が熟知する、しかもなお改善されるべき、脈拍および呼吸の測定器の外にも、数多くの新しい機械、例えば電気反応、ゾンマー式反射研究、および最後に、これは私が特に欲するものであるが、なるべく被験者が知ることがない、顔面表出の運動がこれである。もっと言うと、表情やポーズ、しぐさといったものがこれである。

    すべてこれらの諸方法がもたらす結果は、その根本において心理的興奮の強さに関係する。こうした性質は、必ず自己観察および自己分析の手段の下に初めてこれを知ることが出来る。この方法は近年ふたたび感情研究において、大いに使用されるに至っている。特に、「実験」という形式の下に、興奮した対象を、もしもそれが自然に与えられたものならば、これを分離し、あるいはこれを人工的に発生させて、   [p457]   こうして一定の条件の下に現出させるという方法に拠るというのが、これである。

    こうした研究を為すに当たり、もっとも初めに来るのは、もっとも単純なものである。例えば赤や青などの色、また一定の臭いなどが心理状態に及ぼす影響の研究がそれである。この場合、研究が常に一定の条件の下で行われるとしても、それでもなお、これは実際的で現実的な、「純粋な」自己観察である。
  これはその他の場合には、あえて存在しないものである。ただしこの見解は一般に知られている見解、ヴントのそれとは異なっている。

    しかしその結果は、風景の影響について考えると、それ自体が一つの手段であって、これによって複雑な、ただ自己の決断によってのみ収拾され、絞られていって、また何らかの条件に従う自己の姿を、現実の風景の中で分析的に解釈し了解することが出来るようになる。

    これをするにあたっては、特有な方法的助力の外に、なおかつ、直覚、感受性、心理学的技能、およびその他このような数多くのことが、その結果をもたらす上で参与するのみならず、また常にそうである事が、自らにとって明らかになる。

    すでに風景作用をもたらす様々素材の範囲について、説明するところがあるということが、ここに我々をして、天候および気候の作用の研究に入る方途を方法論的見地から、観察することが出来る。


      2  心理的結論。    心理的過程は、単にそれが自分自身の中で直接に知られ、またそれが他人において表現される、身体的現象を媒介としてのみ知られるに過ぎない。もちろん、その身体現象からして、その心理過程が試行的に結論し得るというのではない。そうではなくてただ、おおむね要素的・条件的に経験されるということである。

    動物については、人間がこれに感情を移し入れることができない。また動物が心理学上の専門知識、あるいは技術を備えていると認めることは出来ないといっても、それでも動物が自分の主人の態度や容貌などによって、その心理的気分を覚えるものである。このような「身体・心理的関係」は、ただその定量によって、その特徴を現わすことが出来るものであるために、一つの「結論」というには、少しも関係するところがない。

    心身上の結論として、我々がこれとは全然相異なる可能性を呈示しようと願うことは、単に要素的・条件的経験ではなくして、科学的経験が我々に示した身体的状態からして、それがしばしば一定の心理的現象をひき起して、それがこうした現象を導きだすということ、これが前に述べた動物との異なる可能性なのである。

    原因の総合関係が、すでに正反対なのである。前の場合においては、身体的徴候は心理的徴候から産出され、その表出によって心理的徴候を指示するけれども、   [p459]   後の場合においては、心理的徴候が身体的徴候から産出され、従ってここから結論されるのである。

    しかしこうした場合、きわめて慎重にならざるを得ない。身体上および精神上の過程の間の因果関係は、常に多くの意義を持つ。実に、今日われわれが用いる器具をもってしては、身体的変化の、単に末梢を見ることが出来るに過ぎない。にもかかわらず、同様な末梢状態が、必然的に同様な全体の状態にのみ依存せざるを得ない、そうした理由を見つけることが出来ない、ということを知り得る。

    たとえば「熱」が、まったく相異なる数多くの様々な病いを集約したものであることは、単にその末梢のみを捉えた古えの医師すらも、なおこれがために「熱病」という同一の病いの中に、これらを結合したのを見ても明らかである。またさらに、これ以上に、数多くの整理上の同じような症状がある場合にも、われわれはそれら生理上の同様な状態が、相適応する程度をしらない。

    軽い貧血状態が、時として心理的興奮状態をひきおこし、ときとして心理的麻痺を惹き起こす。この場合に血球の数は、同じ末梢値を示す。糖尿病の初期においては、同一の排出量であっても、これを生理的に見れば、ある者にあっては短気、憤激、不安を来たし、ある者にあっては疲労、無感情、夢勢力をもたらす。   [p460]

    さらにもっと知れ渡った事実を上げれば。同じ量の、全く同じ時刻に生物の体内に入れられた、同じアルコールの摂取量が、心理上に作用することの千差万別であることを見なければならない。

    この最後の事例は我々をして、特別に注意すべき点に至らせる。心身的結論が、単に生理的変動から進んで、これに相伴う心理的変動にまで及ぶが、このような場合、さらにこうした変動をひきおこす刺激要因からすすんで、その心理的変動にまで及ぶことが、そうである。

    われわれが気圧の作用の分析をするにあたり、わずかな希薄な空気が及ぼす心理的効果に関する経験が、われわれをして危険に陥れるということが、われわれはどうもすると、こうした小さな刺激がわれわれの生活活動を興奮させ、大きな刺激がこれを弛緩[あきらめ]させるという法則に執着しようとする傾向がある。

    そして風土心理学的観察は、数多くの点でこれを肯定する適切な例証を提供する。すなわち、寒さは人間を麻痺させ、冷たさは人間の気分を新鮮にする。嵐は人を疲労させ、微風[そよかぜ]は興奮させる。強く激しい香りは眠りを誘い、適度の香りは活気をもたらす。その他、このような例は非常に多い。

    熱線は、実にこれとは反対のイメージを生み出す。すなわち、温な暖かさは快適な気分を起こし、強烈な暑さは感情の激昂をもたらすと共に、急速な弛緩とあきらめに似た無気力と移り気をもたらす。   [p461]

    こうして、強い空気の希薄が人をして麻痺させ、軽いそれが興奮させるという結論は、そのうちに若干の蓋然性を持つ。しかし、経験がこれを確証しない限り、それどころか、空気療養室の実験がこれを反駁する限り、それは単なる一憶測に過ぎないのである。だとすれば、これはただ、心身的結論においてのみ妥当なのである。

    そうだとしても、推測は科学において少しの真実も持たないというのではない。そうして「当面の価値」という用語が、その特殊な意味で認識値に用いられるのは、既に久しい以前からのことである。先に述べた刺激法則の気圧結果は、人をして空気寮室の気圧結果だけに満足させ、また山岳病の、山間気候の境界における興奮を、単に悪寒や冷風による身体運動がもたらした作用としてのみ見るのを避けさせる。

    こうして心身的結論は、風土心理的領域において、あらゆる臆説が持つ主要使命を満たすことが出来るようになる。すなわち、単なる経験に対する不信任と異議申し立てを保持するということが、これである。


      3  簡単な自己観察。    自分で、その内的生活の粗雑な観察をもって、これが心理学の唯一の方法であると公言する場合、外からの反感を買うのは、もとよりこの部分である。   [p462]   もしも、この公言をまったく棄てて、彼の観察の従来の地位とその将来の価値を許容すると、それは不当なことである。

    すなわち、自己の内的生活の観察は、依然として心理学的研究の第一の種類であって、これによってすべての新奇な現象の中に、心理学の作用を開始しなければならないということは、自然研究の作業が単純な記述でもって、始めなければならないのと同じである。

    人は、いまだかつて内的に体験された事柄の伝達が、それ自身において、なにか感覚的に知覚された事柄の伝達よりも、一層多く虚偽に漂うものであると断言する必要はない。観察する才能は、両者[観念と感覚]いずれの場合においても、人によって著しく異なるものである。こうして観察の可能性は、外的な自然界に対してもまた、時としてきわめて大に、あるいは小となる。

    人は、天候と気候、風景がひき起こす心理的諸現象の、単純な自己観察を多く有するならば、実に少しも侮られることなく、これを取り扱おうとしてきた。そしてその観察を一層多く獲得するために、これを一定の意匠に従って励まし勧める価値がある。

    我々は、今日提出される、詮索と尋問をこととする内的観察の多くが、あまり有用ではないということが出来る。その理由は、方法そのものの中に存在するのではなくて、むしろ、我々が一切の事象を通して、   [p463]   ただ自己の説を貫こうとして、あるいは途中で切り捨てられた説を、その上に応用しようとするからである。そうした生半可な教養が生み出したよこしまな欲求に原因がある。

    こうした確実にして、否定の出来ない事実と、真実に伝えられた関係に基づかずして、好んで大胆な臆説を弄する、通俗学術的書籍のようなものは、その好例である。我々が常に民衆に教えなければならないことは、誰もがこの研究に貢献し得るけれども、なおさらに貢献しようと欲する者は、自己観察の経過を最も忠実に報告し、そうして自らが一切の正式な解釈の試みに、従事しなければならないということである。

    風土心理学的な自己観察は、今までよりもはるかに我々にとって必要である。このことは素人においても、また、研究者においてもそうである。なぜなら、彼らの多くは、最も好ましい機会に遭遇しつつ、なお従来これらの出来事にほとんど注意を払ってこなかったからである。

    数十冊に及ぶ探検報告において――他の分野では、あまねく研究の
行き渡った――気候の心理的作用について、価値ある報告の一片も存在しないということは、将来ほとんど不可能になる。近年すでに幾分の進歩を見ている。将来さらに一層進まざるを得ない。我々は、我々が現に所有する、風土心理的諸現象のきわめて簡単な自己観察の、数十倍をなお必要としている。   [p464]


      4  統計法。    この方法は、風土心理学研究の「正確な」方法の中で、もっとも古いものである。この方法は、まず人生が気候と関係して進行する場合の、周期的現象に応用される。この場合には、主に固有の心理的問題に利用されるだけでなく、また簡単な「社会統計的」確定に用いられる。例えば自殺、犯罪などの粗雑な現象の時期の区分、および頻度を決定するといった場合である。

    この結果は、心理分析によってはじめて風土心理学的に還元される。この際の固有な「社会病理学的」思索、すなわち社会心理学的に発生し、あるいは促された、変態心理状態から分離して考えることが重要な手助けとなる。

    統計の材料に関しては、今日その欠乏を嘆く必要はない。また、統計の方法よりも重要なのは、その批判的解釈にあるということは、ただちに明らかになる。そうでなければ、数字だけですべてが証明されてしまうからである。

    しかしながら、このような解釈は主な点において、他の方法の結果に基づかなければならない。すなわち、精神病理学と実験心理学の結果によって支持されなければならない。また、社会統計学からの補助を必要とするために、我々が常に注意しなければならないのは、このような統計は、それが根本的に心理学的分析を十分になし得るときにのみ、   [p465]   われわれにとって有用であるということである。

    精神病理学的、あるいは実験的経験、または自己観察によって得た経験などを整理するのに用いる、統計的な各種の方法、例えば誤謬分離法などは、経験の結果を曲げ、あるいは偽造するようなことがない場合にも、なお、非常な注意をもってこれを利用しなければならない。

    ロンブローゾがしばしば使用し、かつ、アメリカにおいて度々心理学的研究の基礎となるような、粗雑な大群統計は、「啓蒙的」価値を持ち得る。それは、新しい関係に注目させる前段階となるからである。この方法は固有の研究法としての障害、すなわち外見上きわめて規則的に見えるために、しばしばその価値以上に利用されることが多い。


      5  風土心理学的実験。    実験的研究は、心理学も自然科学と同じように行われる。ただ、すべての心理学の問題に、こうした方法を適用出来ないだけである。しかし、その応用されるところでは、この方法は科学的認識に侵入し得る効果の多い武器となる。

    我々の説明の中では、単純な観察や、あるいは理論的才能をいかに適用しても解釈し得ない問題が、実験によってにわかに適当な解決を得る、様々な場合がある。しかし従来の風土心理学の実験は、ただその場限りの機会的で、   [p466]   非系統的に行われ、正式の研究も全く断片的に行われたのは、悲しむべきことである。

    しかし実験は、直接の研究方法として非常な効力を持つことを、一般に周知させるに至った。こうしてその方法は、自然界の知識および心理の知識を、固有の意味における科学としたのみならず、自然と心理との間に介在する、その範囲の研究方法として導入されるに至った。そして、この範囲とは、自然と心理との間の相互影響の研究、特に心理を対象とする風土心理学的現象がこれである。

    いま我々は、風景に関する実験をしばらく見過ごして、天候および気候のみにその範囲を限らなければならない。そうして一つの研究方法は、それを応用する材料とよく適合する場合にのみ、大いに効果があるものなのである。こうして風土心理学の実験は、天候研究あるいは気候研究からも、全く別種のものとならざるを得ない。

    ( イ )  天候実験。    この実験の要点は、天候要素を人工的に作り出して、それが心的および心身的事象に、どのような影響を及ぼすかを研究することにならざるを得ない。その良い例は、気圧の作用を研究する空気療法における研究、   [p468]   および湿気の作用を研究する、ルブナーの乾熱と湿熱の空間に関する研究などがこれである。

    この場合、先に実験的、すなわち人工的に発生するものは、こうした因果関係の中の気象学的方面である。その心的方面は、単純な自己観察に託してもよい。しかしもし出来れば、結果を確実にするために、その心的状態を実験するべきである。

    すなわち、我々は、人工的に熱し、湿らせ、気圧を高くして、あるいは低くして、明かりで照らし、あるいは真っ暗にした室内において、反応実験・加算実験・理解実験などの実験心理学的技巧を用いて試験すべきである。もちろん、この実権に参与する被験者は、。これらの方法によって得べき、常態の動作値を予め確定しておく必要がある。

    このようにして、気象学的要素の心理的作用に関する、我々の知識が明らかになるときは、簡単な自己観察に基づく天候形態の、心理作用の分析結果を、あらかじめ予測して遂行できるようになる。また、このような分析の補助手段として、人工的諸要素の結合をも研究するのが良い。

    たとえば、人工の暑熱にして湿気の多い空間、あるいは暑熱にして湿気があって、かつ、空気が動揺する空間において実験するという具合である。このような場合われわれは、どのような程度まで実際の天候形態に近づき得るのかは、   [p468]   実際の成就の結果を待って判断することになる。従って、それはあらかじめ予測できないことなのである。

    しかし、天候実験は決して自然の天候形態の外形を作り出して、その心理的作用を研究しようとするものではない。

    私がハイデルベルヒの、英国哲学大会(1908年)における心理学分科会議において、秩序的な天候心理学的実験の動議を提出したとき、その席にいたミュンスターベルヒは、その意味を了解したようであるが、なおこれを疑い、反対して言う。各人に注がれる灌水の作用は、実際の雨と比較できるものではないと。

    彼が、全く誤解しているのは明かである。雨天における水滴の降下は事実であるけれども、それは人間が比較的良く防ぐことが出来るものであって、その主な効果はむしろ、風景的方面にある。そしてまた、その外の雨天については、気温、湿気、気圧、透光、およびそれらが混じり合ったものであって、それが空気の一定の特性を現わしているのであって、これらが何よりもまず人間という、有機体にとっての実際問題となるのである。

    また、このような「混じり合い」を、実験によって作り出すのは極めて困難であって、我々はその要素の種類すら知らないことが多く、また、自然の大規模な事象を、小規模な実験によって決定しようとするのも不可能なことである。   [p469]

    そうだとすれば、自然事象の実験的研究法は、どうすれば可能なのか。我々は自然の事象の中に含まれているものを知り、あるいは想像される、個々の要素成分を人工的に作り出して、その関係を実験室において研究すべきである。

    例えば鉱山採掘者が、爆発を発生させる天候を確かめるために、炭化水素ガスと炭素の粉末とを、一つの試験瓶の中に入れて点火し、いかなる混合の割合といかなる点火方法などが、爆発を誘発し得るのかを研究するといった具合にである。

    このような意味で、それぞれの実験は分析的に行われる。すなわち、自然現象の中に存在することが知られている成分を、人工的に発生させて、その関係を研究するということである。

    もちろん、風土心理学の実験は、実験室において大雨、吹雪、フェーン、雷雨、地震などが、まねることが出来るというのではない。ただ、このような天候の中で現れる個々の要素を、正確に一定の大気中に出現させて、それが心理的および身体的事象に及ぼす作用を、実験心理学の方法によって研究し、これによって自己観察から得た、天候形態がもたらす心理作用解釈しようとするのである。

    こういうわけで、いかなる場合にも、要素の研究をもって始めざるを得ない。従って我々は、実際の天候形態に達したり、あるいはそれを作り出すことはできないけれども、少しづつ正確な要素の結合を知り、そしてその形態に近づくことが出来るようになる。   [p470]

    どの程度まで実際に近づけるのかは、個々の特殊な事情によって異なる。しかし我々にとっては、一つ一つの要素の実験も、十分正確に研究することが困難なのである。まして複雑な結合作用においては、なおさらである。

    他の可能な天候実験は、実験方法を研究の心理学的方面のみに制限し、その気象学的方面は、ただ自然が与える天候形態を使用するものである。そのためにはまず、被験者の通常の活動値を確定しておいて、そして後、雷雨の空気および南風[フェーン]などの影響の下に、その人の心理的および身体的態度を試験すべきである。

    しかし、この方法は、明らかに欠点を持つ。第一に、自然の天候状態は、同じ種類のものであっても、ただ一般的に似ているというだけで、詳細な点では異なることが多い。たとえば、雷雨の空気は、ある場合には他の場合よりも暖かく、湿気も多く、かつ、電気を多く帯びることがある。そうだとすれば、気象的変化に伴って、実験の結果も移り変わり、それぞれの場合においての、その予測は困難で不安定なものにならざるを得ない。

    第二の欠点として、自然の天候形態は不意に現れるだけでなく、まったく予期しないとき、あるいは、どさくさにまぎれて現れることがあるからである。しかしまた、これと共に信頼すべき実験の主要な仮定、   [p471]   すなわち、生活状態をなるべく同じ状態に置くということが、全く望めないからである。

    たとえば、雷雨は職業的活動の間、あるいは睡眠からようやく目覚めたとき、あるいは食事の直後、あるいは身体労働の後などに起こり得るがゆえに、そのたびごとに実験すれば、天候自身の相違と同じく、被験者の生活状態の差から、異なる結果を得ることになる。そうだとすれば、この種の天候実験の意味は、恐らく、生半可でよこしまな言い訳のための、機会としての利用以上に出ることがないのである。


    (ロ)  気候実験。    気候実験は天候実験と異なり、以上の方法によって配列することがむしろ可能である。気候要素は、その時間的延長の点から見て、人工的にほとんど作りだすことが出来ないものである。我々は希薄な空気、あるいは湿気を気候成分として考え、その心理作用を研究するために、被験者を数か月にわたり空気療養室内、あるいは湿気によって飽和させた室内に拘束し続けることは、ほとんど不可能である。

    そうしてこの場合、もっとも適当な方法は、自然の気候を利用することである。すなわち、ある人をして、なるべく同じような生活条件の下で、一度はこの気候に、次にはかの気候に住まわせて、その心理的および身体的変化を比較すればよいのである。

    しかし実際、この種の実験が未だ実現していないのは悲しいことである。しかし、科学的探検がようやく増加した結果、   [p472]   将来生理的および心理的な設備が十分注意されるにいたるであろう。

    この場合、研究の基礎となるべき気候変換[移住]と共に、ある一定の場所の、気候状態の季節による差異も補完的作用を及ぼすことがある。この種の研究の模範となるのは、レーマンの研究である。こうした場合、個々の結果を一定の気候要素に基づくものと考えるのが普通であるが、こうした関係の連結は、非常な注意を必要とすることは、前に述べた通りである。

    また、このような幼稚な研究に、数学的方法を過度に適用するのは、錯誤を招く危険が非常に多い。このようなわけで、説明するよりも、単なる経験によって得た結果が、しばしば事実を正しく現わすことがある。

    以上、両種[移住と変動?]の研究方法においては、共に要素の分析がまず第一の要件となる。この方面でもまた、レーマンの研究がある。冬と高山とは、いくらか同じような心理的結果の移り変わりを示すために、研究材料が十分に豊富な時は、その原因を両者に共通の気候要素に求めることが出来る。

    次に、気候研究の第三種として挙げるべきは、断片的な人工的気候要素を作成して、これを心理的に研究することである。たとえば数時間居室を過熱して、   [473]   あるいは数日間、湿気の多い空気中に滞在するといった具合いである。そして、これと人工的な天候要素との作用の違いは、時間的延長が変化する点にある。またこれは、自然の気候形態によって得た結果の、要素分析を促進し、容易にし、かつ、操作し得るものでもある。

    数週ないし数か月にわたる研究系列を辿る際には、生活条件を常に一定にするということが、非常に困難である。従って、気候実験のそれぞれの場合においては、数多くの被験者を使用し、それを継続すると共に、常に新しい研究を必要とする。このようにして、半ば気候的であると認められるような結果を確定し得るようになる。

    しかも他面においては、正確な結果を得る必要上、被験者を非常に注意して選択しなければならず、またその性質上、苦しい研究の継続を省略することもできない。心理学においては、不純な研究の多数は、方法上非難のない少数の研究よりも、はるかに価値が乏しいのである。


    6  民族心理学的方法。   この方法は風土心理学の研究においては、未だほとんど問題にならない。我々は前に、気候と心理的特性との関係について、むしろすこぶる偏った考えをもっていた。そうして、実際の研究の進渉に関しては、前に多少排斥を試みた程である。

    もしも他の方法によって、自然環境と心との個々の関係について、   [p474]   なお多くの説明を得られるときには、はじめて、民族の生活における精神現象を、どの程度まで、その環境の影響に帰すことが出来るかという問題を、新しく研究できるようになるのである。しかしこれにはなお、長い時間を必要とする。



    *    *    *    *    *    *


    われわれは、詳細な研究方法の理論計画と共に、ある種の方法によって、特に問題として着手すべき価値ある事象、および特に豊富な説明を供給すること明らかな事象などについて、あらかじめ想像を逞しくした。特に我々が、今日の心理学研究所の設備によって、風土心理学の実験を遂行することが、ほとんど不可能であることは明らかである。

    そうであるならば、次第にこの目的に欠くことの出来ない補助手段を講じて、ドイツにおける研究が、実際に完成することを祈るものである。現在の幼稚な状態から見ても、我々の計画が完成して、この「実際的心理学」の実用的意味が、十分に認められるに至るべきことは、決してユートピア的空想ではない。

    ファウストの序言の下の句を読め。「こうして暴風は競って海から陸へ、陸から海へと吹きまわり、荒れ狂いつつ、周囲にそのもっとも深い作用の一連鎖を作る・・・・・・」、この通り、このような一連の作用は、単に我々を取り囲って走るだけでなく、実に我々の内心に深く進入する。どこに、いかに深く、いかなる方向に、これらの研究が為されるべきか。

    我々はまず先に、この研究方法によって、堅固な断片的知識をえる。そしてその結果を利用して、あの「永久に困難な大法則」の新たな錯綜した無秩序を解明し、これによって「われわれの存在のすべての範囲を完成」しなければならない。

    しかし、本書で述べたところからもなお、深奧な風土心理学的知識は、内部の生活事象の多くの連続において、中世の模索的な迷信が、「星座が欲したように」読むよりもなお、良好な権利でもって、将来我々に与えられるであろう。

    しかしながら、その時と今日tの間には、なお多大な研究の介在を必要としている。